たいじや -鏡の月- 7
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 空輪山の麓にたどり着いた彩華が空を見上げた。
 高く澄んだ青空に緑がよく映えている。今日は気温が高くもなく低くもなく、散歩にはもってこいの日であろう。
 あとで時間があったら久しぶりに頂上まで行ってみようかと思った彩華は、荷物を持ち直すと、目の前に見える頂上への階段を上りはじめた。
 途中で辺りを見回し、誰もいないのを確認すると横に反れる。
 人の手が加えられていない獣道を歩くのは少々大変だ。傾斜だから身体が斜めに傾いてしまうのだ。ごつごつとした石や木の根に足をとられそうになりながら慎重に進んでゆく。
 木漏れ日の差す薄暗い中を歩いていた彩華は、地面から僅かに盛り上がっていた木の根に気づかずに足を引っ掛けた。
「――っっ」
 片足で二、三歩跳ぶように進んでから踏ん張った。どうにか転ばずにすみ、彩華はほっと息をつくと上げていた片足を下に降ろした。トートバッグを開けて中身を確認すると、少し傾けてしまったがこちらも大丈夫なようだ。
 胸を撫で下ろし頬にかかった髪を無造作に後ろに払った。耳の後ろあたりから髪の上半分を纏めていたヘアクリップが緩んでいたのに気づいて束ね直す。
 木陰を吹き抜けてゆく心地よい風に目を細めた。
 ここを枯れた山≠ニ言うのはとても失礼な気がする。弱っているというよりも緩やかな場所、だろうか。霊気のまったくない場所に比べれば十二分に良いところだ。
 改めて()れば、気がどこかで滞っているようだ。
「これって直せないのかな」
 今まで誰も気にしなかったということは、下手に弄っては駄目か、何らかの事情でそのままにしているのだろうか。
 大昔の術者が邪気封じに使用したのかもしれない。悪い影響がなければ他人の術に手を出さないのは術者の鉄則だ。うっかり封じを解いて悪鬼復活、なんて笑えない。
 ――そうすると、今からやろうとしていることは大丈夫なのか……。
 いいやこれも運命だ、と彩華は自分に言い聞かせるように頭を振る。
 身体中に巡る空気を入れ替えるように深呼吸すると、ふたたび歩き始めた。
「……」
 突然、目の前に白いもやが見えて立ち止まる。
 頭に霧がかかったような錯覚に陥った。目を瞑り息を吐き出すと、その違和感はすぐに去っていった。
 どうやら結界の類だったらしい。
「……このへん?」
 少し歩くと踊り場のような平らなところへ出た。
 広さは二メートル四方くらいだろうか。整備した訳ではないようだが、この一帯だけ雑草が生えていない。
 目立ったものは山肌の近くにある苔の生した岩だ。他に見えるものといえば、周囲を覆っている木々のみ。薄暗いためか、差し込んでいる一筋の木漏れ日が神々しく感じられる。
 注意深く見回すと、岩の近くには朽ちた木の破片が落ちていた。
 一番霊力の強いあたりを目指して歩いてきたらここへたどり着いたのだ。間違いないはず。
「やっぱりここだよねぇ」
 その呟きに答えたのか、木々がざわめき空気が振動した。
 油断していた彩華の両足に、気の塊がふたつ飛んできてぶつかった。痛みはまったくなかったが、その衝撃で前につんのめりそうになりながらも耐える。
『来たか』
『来てくれたのか』
 彩華の両足に白い物体が纏わりついている。同時にぱっと顔をあげたふたりは、あの日出会った白蛇の精霊だ。
 きゃっきゃと楽しそうに声をあげているふたりをやんわりと引き剥がすと、彩華は膝を折って視線をあわせた。
「こんにちは」
『待っていたぞ』
『待っていたぞ』
 あどけない表情のふたりに彩華は笑みを浮かべると、バッグからレジャーシートを取り出し足元へ広げた。
 初めて見るのか、精霊たちは興味津々でその様子を眺めている。彩華が酒の入った瓶子(へいし)と弁当箱を置くと、覗き込んでいる気配がますます楽しげになった。
 酒があるから必要ないかとも思ったが、念のためと水筒に緑茶を入れてきた。これも舌の肥えている祭神が好きな銘柄である。
 最後に二段重になっている弁当箱の包みをほどく。中には色とりどりの食べ物が詰まっている。
 可愛らしい歓声があがった。
「はい。どうぞ」
 シートの上にふたり仲良く座り弁当に手をつけた。時々歓声をあげながら上機嫌で弁当を頬張っている。いたく気に入ったようで、見る間に中身が消えてゆく。
 その様子に彩華は頬を緩ませた。喜んでもらえたのならこちらも嬉しい。作りがいがあるというものだ。
 だが、子供たちが瓶子から酒を注いで飲んでいる姿は、なんとも奇妙な光景である。
 でも年齢関係ないんだからおかしくないし、と自分自身に突っ込みを入れて、彩華は気合を入れるために頬を軽く叩いた。
「さて。こっちが本番」
 生半可な気持ちで挑めば失敗するかもしれない。
 普段の調伏依頼で気を抜くことがないのは言うまでもない。常に気が張っているから意識しなくとも身体が勝手に集中しているのだ。――もちろん油断して無防備になるときもあるけれど。
 死と隣りあわせにならない術の執行は気が緩みやすい。だから調伏以上に注意が必要になる。
 深呼吸をした彩華は、カーディガンを脱ぐとバッグからもう一つ水筒を取り出した。中身は月詠神社に沸く井戸水だ。
 両の肘から手先に水をかけて自身を清める。本当は頭から被った方がいいのだが、全身濡れたまま帰るのは避けたい。
「ひふみよいむなやこと ふるべ ゆらゆらと ふるべ」
 右腕を左側から大きく動かして井戸水をあたりに撒き散らした。撒いた水が綺麗な弧を描いて、地面に落ちる寸前に蒸発する。
 地面から霊気が立ち昇り、風もないのに彩華の髪が揺れた。一息ついてから一歩前へ進む。
 岩に手をあてると強い鼓動が伝わってくる気がする。
 安堵から彩華は笑みをもらしつつ、浄化済みの玉石を取り出した。元々は霊地のためか術がかけやすそうだ。
 玉石を岩の周りに均等に設置し、指を複雑な形に組む。
 ゆるりと神呪を紡ぐ彩華の瞳が虚ろになり、しばらくすると仄かな光がその目に宿る。
 霊気に煽られた前髪がたなびいた。
 供物を食べ終えた精霊たちが、わくわくとした表情で彩華に近づくが、彼女はそれに気がつかない。
 僅かに伏せていた目をあげるとともに組んだ手に力をこめる。
 ――清らかな音が緑の木立に響き渡った。霊力のない者の耳には聞こえぬその音は、やがて大気に溶け込み消えてゆく。
 詰めていた息を吐き出し肩の力を抜く。息を整えるために小刻みに呼吸していると、彩華の後ろで拍手喝采が起きた。
「あー……ありがとう」
 手渡された水筒の緑茶飲み干すと小さくため息をついた。やはり慣れないことはするものじゃない。
 身体をほぐすように動かしていた彩華は、ふと何かに気づいて視線を巡らせた。
 滞っていた龍脈の流れが変わったのを感じた。そのせいか、今まで気がつかなかったものがくっきり()えてくる。
 岩から少し離れた草むらから淡い光が浮かんでいるのを見つけた。近づき草をかき分け確認すると、半分土に埋まった平たい物がそこにあった。なぜか、霊力で編まれた籠が上に被さっている。
 良く見れば、籠は半分以上壊れていた。
「なに、これ?」
 邪気はまったく感じない。
 籠の隙間から手を差し込み軽く引っ張ると簡単に取れた。思ってた以上にずっしりとした重量感だ。
『駄目じゃ。それに触るでない!』
「え?」
 精霊たちが止めるが時すでに遅し――彩華はしっかりと両手でそれを掴んでいる。
『…………』
 あっけらかんとしている彩華に対して、精霊たちは不審な目を向けてからひそひそと囁きあった。
「……そんな、化け物を見るような目はやめてほしいんですけど……」
 悪い因縁のあるものには思えないのだけれど、と彩華は手中の物を見た。
 彼女の手にあるのは平たい和鏡だ。鏡背の中央につまみがあり、周りには細かい彫刻が施されている。右上に丸い形。その下にあるのは波立つ水。月と海、だろうか。鏡面にはヒビが入ってしまっているが、なかなかの一級品であろう。御神体として使われていたものかもしれない。
 精霊たちは眉間に皺をよせて彩華を見上げると、
『なぜ平然としているのだ?』
『もしや邪気は抜けたのか?』
 恐る恐るといった風にひとりが鏡に手を伸ばした。
『きゃあ!!』
 触れた途端、悲鳴があがった。小さな手の指先が赤く腫れあがっている。
『大丈夫か?』
 慌てて残っていた井戸水を腫れた手にかけると、痛みが和らいだのか半泣きの顔で頷いた。
『……なぜ平然としているのだ?』
 ひそひそと囁きあうふたりの目が、怪異だ、と語っている。ふたたび問われた彩華は意味がわからずたじろいだ。
「ふたりは、これが何なのか知っているの?」
 精霊たちの様子からこれは呪具だったのかと思う。今は、その片鱗も感じないけれども。
 顔を見あわせた精霊たちは目と目で相談すると、彩華に向き直った。



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