たいじや -鏡の月- 8
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 事の始まりは何百年も前だった。
 その頃は祠も存在していたが、すでに御霊は入っていなかった。否、初めから入っていなかったのかもしれない。
 ある満月の夜のことだ。数人の男が空輪山へとやってきた。
 ふたりで楽しく暮らしていたというのに、どうやら男たちはこの祠に用があるらしい。
 追い返そうと意気込むが、力の差は戦わずとも一目瞭然。仕方なくふたりは草むらへ逃げこんだ。幸い、男たちには気づかれなかったようだ。
 草むらからこっそり覗くと、祠の前に祭壇を設けて奇妙な雰囲気の中、儀式を行っている。
 それまで辺りに住まう農民程度しか見たことがなかった精霊たちは、男のただならぬ雰囲気に恐怖を感じながらも、興味の方が勝って様子を見続けた。
 おどろおどろしい呪詞(じゅし)にあわせるように、どこからか聞こえてくる不気味な声に震えるが、足がすくんで立ち去れないでいた。
 どのくらい時間が過ぎたのかはわからない。突然、儀式の途中で祠が壊れた。同時に低い唸り声も消える。
「やはり紛い物は駄目か」
 しゃがれた声の男が吐き出すように言った。
 男が割れた木片を地面へ払い落とすと、その跡には和鏡のみが残る。
 その後も何か言葉を紡いでいたが、よくわからない。ただ、漂う霊気が尋常ではなかったので、精霊たちは事が終わるまで離れた場所に避難したのだった。
 ――しばらくしてから戻ってくると、男たちはどこにもいない。
 鏡だけがここに落ちていた。相変わらず霊気を吐き出しているが、先ほどよりは弱い。あとはふたりの力で封じ込めればいい。
 これでもう大丈夫。鏡を見れば、霊気は脆弱になっている。
 安心したふたりはまたここで暮らすことにした。
 それが半月ほど前に突然爆発したのだ。天も地も揺るがすほどの咆哮が、一度だけ辺りに轟いた。
 鏡からは大気が凍りそうな霊気が放出されている。
 離れた草むらに隠れた精霊たちは息をひそめて様子をうかがった。
 やがて壊れた霊力の籠から、黒い人影が這い出した。ずるりと音がしそうなほど緩慢に立ち上がり、ぎょろりとした鋭い目を動かして周囲を見回している。冴え冴えと降り注ぐ月の影が、暗澹(あんたん)とした雰囲気を醸しだしていた。
 ふいにぴたりと止まった視線が、自分たちを見ている。それに気づいた精霊たちは身を寄せて震え上がった。
 見つかったら殺される。
 一歩、二歩……と近づいてくる影に異様な気配を感じ取った精霊たちは、脱兎のごとく逃げ出した。捕まったらおしまい。本能で理解した。
 逃げ出す際に男の瞳が一瞬寂しげに揺らいだのを目に留めた。だが構っていられない。
 近づいたら殺される。
 捕まったら喰われる。
 ――あれは、悪神だ。
 幸運なことに影が追ってくることはなかった。しかし、逃げ出したはいいが他に住まえる場所は知らない。どの種族にも縄張り≠ニいうものが、一応はあるのだ。
 どうしようかと悩んだふたりは、そっとこの場へ戻ることにしたのだった。

『運のいいことに影はどこかへ去った後でな』
『ちょっと怖かったが気配も消えていたからな』
 顔を見あわせて何度も大きく頷いた。人ならぬものでも怖いものは怖いらしい。少々ふたりの顔が青ざめている。
『鏡は近寄らなければ何も起こらなかったのでな。そのままにしていたのじゃ』
「そうなんだ」
 呟いて、彩華は改めて手中の和鏡をまじまじと見つめた。
 正しい使い方はされなかったのだろう。けれど、やはり呪具には思えない。僅かに残る邪な念は人間のものだ。周囲への影響はもうなさそうだが、大勢の人間が来る空輪山(ここ)へ放置したままにするのはまずい。
「これ、預かってもいい?」
『もちろんじゃ!』
『もう持ってこないでくれ!』
 即答だった。
 よほど嫌なのだろう。力説する精霊の必死さに、彩華は思わず苦笑してしまう。
 鏡のヒビ割れに気をつけながら、持っていたタオルで包んでバッグへしまった。さて、これをどうするか。
 精霊たちは青ざめたまま和鏡を見つめていた。が、ふいに真顔になったふたりの瞳がきらりと光った。
『――そなたがここへ来たのは天命であったのかもなぁ』
「え?」
『そのうちわかる』
 訳がわからず彩華が聞き返すがふたりは笑みを浮かべるだけだ。
 ――どうしようか。
 彩華は考えを巡らせた。
 詠がいれば彼に聞くのが一番だろう。だが今は無理だ。神社の書庫に資料がありそうな気もするけれど、空輪山についての話は家族から一度も聞いたことがない。
「うーん……」
 この場合は――。
麻布都(まふつ)が適任なのかなぁ」
 こういったことに詳しそうな友人の顔を思い浮かべた。

   ◇ ◇ ◇

 そこは、どこまでも果てしなく続く闇が広がっていた。
 光もなければ小さな音すらも聞こえない。ただそこに常闇があるだけの空間だ。
 天の国≠ェ花々が咲きほこり、平和がもたらされた清らかな場所であるとしたのは古の人間。救いを求める中で思い描いた夢物語である。誤りではないが、実際は魂を休めるための、ただの空間。
 ある者は懐かしい思い出を。ある者は自身の望む偽りの夢を。安らぎの闇の中で、束の間の休息を得る。
 その暗闇に青白く輝く人影が浮いている。
 仰向けで眠り続けるその唇には血の気がない。生きているのか、それとも死んでいるのか。一見して定かでない。その者は、身動きをまったくせずに宙にたゆたっていた。
 ふいに、銀の髪が風もないのに揺らめいた。硬く閉じられた瞼の睫毛が細かく震え、だらりと力なく下がっていた指がぴくりと動く。
 ――何が起きた……?
 信じられないといった様子で目を見張った。
 例えるならば満々と水を湛えた水瓶。それの僅かなひび割れから少しずつ流れていた精気が、ぴたりと止まった。何をやっても止めることができなかったというのに。
 ――だがこれで戻ることができる。
 深い藍の瞳がすっと細められた。
 上半身を起こしかけ、まだ本調子ではないことに気がついた男は、元のように横になった。
 心に浮かぶ女の顔を思い出してその唇に僅かに笑みを刻む。
 ――すぐに、戻る。
 そうしてふたたび目を閉じた。



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