たいじや -鏡の月- 9
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 小さな木製の看板には、墨で『霊石屋(れいれきや)』と書いてある。ここはパワーストーンを扱っている和風の店だ。
 店が開いているのを確認すると、彩華は取っ手を手前に引いた。開くときに軋む音がするが、少しも不快には感じない。どことなく懐かしい日本家屋の雰囲気だ。
「いらっしゃい。彩華」
 扉を開けると、真っ白い色無地に薄紅の羽織を身につけた霊石屋の店主が笑顔で出迎えた。
「お邪魔します。今、大丈夫?」
 訪ねるときは必ず客はひとりもいない。偶然なのかはたまた必然なのか。気にはなるけれど、さほど重要ではないか、と彩華はひとりごちた。
 不思議な出来事は人間が思っている以上によくあることだ。
「ええ、どうぞ入って」
 麻布都(まふつ)は柔らかく笑うと、神に仕えている者のような気品のある物腰で彩華を招き入れた。
 この街へ来る前は、どこぞの有名な神社に勤めていたのかもしれない。
 優雅な立ち居振る舞いに見惚れた彩華は、入り口で一瞬立ち止まり、はっと気づいて中へと進んだ。
 訪問を察知していたのか、すでにお茶が用意されていた。しかも、たった今淹れたばかりというように美味しそうな湯気がたっている。
 聞いたことはないが、彼女には式神という存在がいるのだろうか。――いそうな気がする。もしくは、千里眼でも持っているのかもしれない。
 そんな彩華の考えに気づいてか、麻布都は意味深な笑みを浮かべて椅子を勧めた。
「……詠は、遠くへお出かけ?」
 麻布都の目が一瞬きらりと光った気がした。
「え、うん……出かけてる。でも、なんで?」
 突然問われて彩華はどぎまぎしながら答える。
「顔に寂しい≠チて書いてあるもの」
 彩華の表情を見た麻布都は、くすくすと肩を揺らした。
 もちろん実際には顔に何も書いていないのだが、そんなことを言われると濡れタオルで顔をゴシゴシと擦りたくなる。
 代わりに両の手で軽く擦ると、彩華は咳払いをひとつして気持ちを入れ替えた。トートバッグからタオルで包んだ例の和鏡を取り出して麻布都の前に置く。
 中身を確認した麻布都の目が楽しげに細められた。
「ずいぶん珍しい物を持ってきたのね。これはどこで?」
「空輪山で」
 外法師の仕事の一環で空輪山へ行ったときに目についたのだ、と彩華はかいつまんで話をした。山に住む精霊のことや彼らが見た内容などを話しても構わないのだが、すべてを話す必要はないだろうと判断した。
「そう。木は森に隠してあった、といったところかしら。案外身近な場所にあったのね」
 やはり予想は正しかったようだ。
「彩華は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の天岩戸説話≠知っている?」
 麻布都が唐突にそんなことを言った。
 話の繋がりがまったくわからないが知っていると彩華が頷く。神職者ならば基本中の基本だろう。
「乱暴者の弟君である素戔男尊(すさのおのみこと)に嫌気がさして天岩戸にお隠れになった話でしょ?」
「いささか要約しすぎだけれどそうよ」
 彩華の乱暴な答えに、麻布都は表情を変えることなく言った。

 弟の乱暴さを悲しんだ天照大御神は岩戸へと引き篭ってしまった。
 太陽が消えてしまえばこの世は真っ暗になる。
 人界だけでなく神の世界でも様々な災いが起きだしてしまい、ほとほと困った八百万(やおよろず)の神は、太陽を呼び戻すために儀式を行った。
 ――岩戸の外で何やら楽しげな声がする。
 不思議に思った天照大御神がどうしたのかと質問すると「貴女様よりも貴い神が現れたのでそれを喜んでいるのです」と答えが返ってきた。
 少しだけ戸を開けてよくよく外を見れば、確かに神の姿が見える。
 その姿をもっと良く見ようと扉を開けた途端、天照大御神は岩戸の外へと引きずり出されてしまった。
 天照大御神が見た貴い神の姿は、鏡に映った自分自身であったのだ。
 こうしてふたたび世界が明るくなった。

「そのときに使用したのが、八咫鏡(やたのかがみ)と呼ばれる神鏡と、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)
 このふたつに天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を足すと三種の神器となる。
 伝承では、所有者はそれぞれ、八咫鏡は天照大御神、天叢雲剣は素戔男尊。
 それから……と麻布都は一息ついた。
「八尺瓊勾玉は、月詠尊。月詠神社の御祭神ね」
 彩華は無意識に首から下げた勾玉を服の上から握った。
 勾玉は詠≠ゥら貰ったのだと、何かの折に話したことがある。だから(くだん)の勾玉をただの人間が持っているとは到底思いつかないだろう。だが、麻布都が時折見せるこの世の何もかもを見通したような鋭い視線は、少し怖い。
 そ知らぬ顔を決めこんだ彩華は聞き流したふりをした。
「うちの御神体は月長石の原石だよ。総元締めの神社にその勾玉があるのかは、聞いたことがないから知らないけど」
 ――上手く誤魔化せただろうか。
 不安に思いながら彩華は程よく冷めた緑茶を啜る。
「御神体は仕えている神職者ですら滅多に見られないものね」
 彩華の動揺に気づいた風もなく麻布都が頷いた。
「話を元に戻すわね。岩戸伝説で使用した八咫鏡の前に、別の鏡が用意されていたって知っている?」
「聞いたことは……ある」
 自信なさ気に彩華が答えた。
 日像鏡(ひがたのかがみ)日矛鏡(ひぼこのかがみ)。八咫鏡に先立って創られたそのふたつの鏡は、現在は八咫鏡とは別の神社の御神体になっている。
 日像鏡と日矛鏡では神意に叶わず、新たに創られた八咫鏡でやっと意にあったと伝わっている。
「ふたつの鏡は意にあわなかったとされていたけれど、だからといって失敗作ではなかった。そうでなければ御神体として扱われない。一説では、本当は八咫鏡は必要なかったと言われている」
「なにそれ?」
 意味不明だというように彩華は首をかしげた。
「簡単に言えば、八咫鏡は天岩戸≠ナはなく別の儀式で使われたのよ。天照大御神の御姿、力――すべてを写し取った分身を創りだそうとした輩がいた、ということよ」
 思いもよらなかった麻布都の発言に彩華は驚愕した。
 そんなことが可能なのか。確かにありえない話ではないし、試してみる術者もいただろう。成功すればその者は敵なしだ。自分に都合のよい最強の式神を手に入れるようなものだ。だが、そうそう上手くいくとは思えない。
「天照大御神の件を知っていたのかは定かではないけれど、とある男たちが月詠を降ろそうとした、と聞いたわ」
「月詠を……」
 実感がわかない彩華はそれだけ呟くと黙りこんだ。
「お茶、淹れ直すわね」
 すっかり冷めた湯飲みを見て麻布都が立ち上がった。
 部屋の奥へと向かう後姿を何気なく見つめた彩華は思案するように唇を噛んだ。何のために神を降ろそうとしたのか見当がつかない。
「大方、不老不死でも考えていたんでしょう」
 音も立てずに戻った麻布都に驚き、彩華は肩をびくりと揺らした。不老不死、と小さな声で反復する。
 繰り返される月の満ち欠けは死と再生≠ニして捉えられやすい。月詠には変若水(おちみず)と呼ばれる、飲めば若返る水の伝説もあるのだ。
 国外でも論争があったという不老不死は、人間の永遠の課題なのだろう。
「男たちは当時の術者が征伐して、目論見は失敗に終わったけれど鏡は不明。術の痕跡を追っても無駄だった。仲間が持って逃げ追うせたのだ、と言う者もいた」
「この鏡がその儀式に使われたというの?」
「ええ。この彫刻は私が聞いた模様と同じよ」
 麻布都は和鏡の裏をついと指差した。
 細かい彫刻は、さざなみの立つ海と月なのかと思っていたが、月から湧き出した変若水が下に落ちているのを表しているようにも見える。
 月神の力――否、聞いた話から想像すれば、過去の出来事は月神そのものを得ようとしていたのか。
「……」
 彩華の表情がさらに硬くなった。割れた鏡面に指を這わせてぎゅっと眉をよせる。
 ドッペルゲンガー、鏡、過去の凶事、月詠――このあいだから複雑に絡まっていた思考の糸が、これで綺麗に解けそうだ。
 伏せていた目をあげて彩華は麻布都の顔をじっと見つめた。
「それは本当の話?」
「……という話よ。あまり公にはなっていないけれどね。今まで鏡が発見されなかったのは、ここにはないという思いこみと、術の行使が気づかれないように結界でも張ってあったからじゃないかしら」
 そう言って麻布都は柔らかく微笑んだ。その表情に拍子抜けした彩華は、強張っていた肩の力を抜いて、ふっと笑う。
 逸話をあたかも見てきたように話していた麻布都に、とある好奇心が沸いた。
「ねぇ。麻布都って、年はいくつなの?」
 出会ってからずっと思っていた疑問を口にした。
 見た感じは二十五歳くらい。誰もが羨む透き通った白磁の肌は決して病的ではなく、むしろ健康そうである。肌の艶は十代と言ってもよいくらいだ。
「女性に年齢なんて聞くものじゃないわよ?」
 気を害した様子もなく、麻布都はただ微笑むだけであった。

 霊石屋から彩華が退出すると、太陽はすでに沈んでいた。
 日中はよかったが夜は少し肌寒い。彩華は両手を擦りあわせると、肩にかけているトートバッグを持ち直した。中には例の神鏡が入っている。呪具関係に詳しい麻布都にそのまま預けようと考えていたが受け取ってはもらえなかったのだ。
 (いわ)く、月詠と関係しているのだから月詠を祀っている神社の手元にあるのが都合がよい、と。麻布都の話はどこまでが真実なのか不明なのだが、事が事だけに隠密裏に処理した方がいいのだろう。
 第一、彼のことは高村家最大の秘密であるのだ。誰にも知られてはならない。……その割には、問題の彼はまったく重要視していないのだが。彼なりに考えてはいる、と思う。たぶん。
 無理矢理納得した風情で頷いた彩華は、ぼんやりと空を見上げた。
 夜空には望月と呼ぶにはまだ早い月が淡い銀の輝きを放っている。
「さっさと帰ってきなさいよ、ばか」
 口にした言葉は誰に聞かせるわけでもなく、彩華はぼそりと呟いた。



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