たいじや -鏡の月- 10
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 暗闇の中、彩華は手探りで電気のスイッチを探した。
 指に触れた四角のスイッチを押すと、軽い音とともにオレンジ色の明かりが点く。ひんやりとした書庫の中は、電気を点けても少し薄暗く感じた。
 少し湿った空気と独特の臭いが鼻を突き、彩華はしかめっ面をしながら棚をひとつずつ見て回る。
 ふいに入り込んだ風に煽られて埃が舞い上がった。軽く吸いこんでしまった彩華は、口元を覆いながら悪態をついた。
 明かり取り用の窓が開いているとはいえ、定期的に掃除しているのにどうしてこんなに埃っぽいのか。
 堪らず彩華は一旦外へと出た。咳きこみ過ぎて目尻に涙が滲んでいる。
 荒れた息を整えながら、どうしたものかと思案する。
 棚の上は掃除し辛いから取れきれない埃が溜まっているのだろう。一度徹底的に掃除した方がいいのかもしれない。
「うん。今度詠に手伝ってもらおう」
 彩華の兄も背が低いわけではないが、彼の方が幾分か高いのだ。
「整頓もしたいし……」
 心配かけてる迷惑料として手伝ってもらおう。決まりだ。
 勝手に決定事項扱いにした彩華はほくそ笑んだ。普段散々からかわれているのだから、このくらいは許されるだろう。
 ようやく咳が治まったところで書庫へと戻ってゆく。
 本殿の横には(くら)がふたつある。ひとつは、神社に持ち込まれた呪具などを保管する庫。そしてもうひとつがこの書庫だ。ここには、古くからの陰陽道関連の文献や、先祖が記録した日記のような書物が保管されている。
 だがすべて残っているわけではない。一般人から見ればただの記録でも、後々問題が生じる可能性があると判断されて燃やされてしまった物も数多くあるのだ。
「……もったいないよねぇ」
 ぶつぶつと呟きながら視線を上下左右に動かす。
「このあたりかな」
 彩華が立ち止まった辺りには、千年ほど前の記録が記された書物が置いてある。空輪山での凶事について宮司にそれとなく聞いてみたものの、望んだ答えは返ってこなかった。ならば書庫にあるかもしれないと探しにきたのだった。
 とはいうものの、いつの時代に起きたことなのかさっぱりである。
 棚から一冊手に取ると彩華は中身を斜め読みした。
「……」
 文字を目で追う彩華の眉間に皺がよった。
 流麗な文字は綺麗ではある。しかし現代人には正直読みづらい。昔は草書体やら行書体が多いのだ。書道の勉強もしているが、読むのはまた別だ。
 自室でじっくり読むことにした彩華は二、三冊抱えると書庫の明かりを消した。

 疲れたらすぐに眠ってしまおうと考えた。
 まずは被った埃を風呂で洗い流し、彩華はほっと一息ついた。そうして、髪が痛むのも構わずにタオルで荒っぽく滴を拭う。最後に手ぐしで軽く整えると、使用済みのタオルを椅子の背もたれに放り投げた。
 彩華は書庫から持ってきた書物を手に取りベッドへ腰掛けると、ぱらぱらとページを捲り、時折草書辞典とにらめっこする。
 字を確認しながら読み進めるが、それでも補いきれない部分がある。
 集中して書物と向きあっているうちに目が疲れたのを感じた彩華は、一度目を上げて瞬きを繰り返した。
 いつも以上に疲れている。
 そういえば、今日は慣れない結界張りなんて芸道を行ったのだと思い出す。彩華は首と肩を数回動かすと、ふたたび書物に目を落とした。
 ――それからどのくらいの時間が流れたのか。彩華ははっと顔をあげると、急に眠気が襲ってきたのを感じて小さく欠伸をした。
 そろそろ眠りにつくかと本を閉じる。あまり成果が感じられなかったが仕方ない。
 残りはまた明日にしようと立ち上がりかけ、何かが肩に触れる感覚に、彩華は身体を強張らせた。顔を上げた瞬間、押し倒されるようにベッドへ倒れ込んだ。
 持っていた厚い本がばさりと大きな音をたてて落ちる。
「――っ! いや!」
 身じろぎにあわせてベッドが軋む。首筋を生温かいモノが這う感覚に、彩華は肌を粟だたせた。自身を押さえつけている気の塊は、ほんの僅かだが荒々しく感じる。目元は覆われていて何も見えない。利き手と両足を封じられ、唯一自由な左手で自身にのしかかっているモノを押し返すが、ぴくりとも動かない。
 祓いの祝詞を紡ごうとして、彩華は気づいた。自分を組み伏せている相手が笑いを堪えている。
「……」
「…………。詠?」
 冷静になって気配を探れば、よく知った神気だ。
「異形と御祭神の区別もつかんのか、お前は」
 くっと喉を鳴らして男が笑った。手を彩華の顔の横について身体を離すと、今度は声を出して笑う。
 呆然としている彩華の髪を撫でると、詠はふたたび覆い被さって彼女を抱き締めた。
 久しぶりに包まれた神気と男の体温に彩華の思考が停止する。
「とにかくいったんはーなーしーてー!」
 男の手から逃れようと彩華が必死にもがく。
「少し黙ってろ。近所迷惑だ」
「わかったから離してっ」
 なおも男の腕から逃げ出そうと暴れる彩華に、詠が含みのある声音で囁いた。
「…………少し黙れ」
 耳に届いた優しい声が彩華の動きを止めた。
 糸の切れた操り人形のような彼女を見た詠は、これ幸いと両腕でしっかりと抱える。そうして優しく拘束してから、何か言いたげに開かれた彩華の唇を自身のそれで塞ぐ。
 触れた唇は、熱でもあるのかというくらい熱く感じた。
 驚き、ふたたび暴れだした彩華の身体を難なく押さえこみながら、詠はさらに深く口づける。
 唇に伝わってくる甘い衝動に、彩華は意識が落ちかけて徐々に力を抜いた。が、何とか意識を保ってふたたび暴れだす。
 彼女の主張は通じたらしく、やがて名残惜しそうに詠の唇が離れた。
「し、死ぬかと思った……」
 彩華がぜいぜいと荒い呼吸を繰り返したあと、ぽつりと洩らした。
「よりによって窒息か」
 色気のない、と詠が渋い顔をすると、彩華は恨みがましい目で男を見上げた。
「だったらそういう雰囲気作ってよ。ムードもへったくれもない」
 彩華が負けじと言い返す。
 だが、その瞳が泣きそうに揺れたのを見逃さなかった詠は、安心させるように彼女の頭を軽く撫でた。
「ただいま」
「――おかえりなさい」
「そんなに寂しかったのか? そうかそうか」
 意地悪な笑みを浮かべる相手に、彩華は僅かに頬を染める。抗議の声をあげかけて、ふと口を噤んだ。自身の首筋に触れる垂れた銀の髪に気づいたのだ。そっと手を伸ばして、銀の髪を梳くように指に絡める。落ち着いてよく見れば、彼は天色(あまいろ)の狩衣姿だ。久しぶりに見る姿に、彩華は驚いた顔で詠の顔を見つめた。
「……あと二日すれば人型も取れるようになる。少しずつ大気を取り込めば元に戻る」
 そう言って詠は不機嫌そうに嘆息した。
 まだ本調子ではないのだろう。彼の子供のような様子に苦笑した彩華の顔が、急に真顔になる。
「なんだ?」
 詠は訝しげな表情で彼女を見た。
「緋月には会ってきた?」
「まだだが……」
 なぜ急に、と詠の瞳が語っている。
「じゃあ、すぐ行ってきて。とっても心配してたから」
 急かす彩華に対して詠は胡乱げな目を向けていたが、やがて大気に溶けるように姿を消した。
 詠が本殿へ向かったのを見届けてから、彩華はほっと息を吐いた。身体を起して軽く乱れた服装を正す。
 見慣れない姿は非常に心臓に悪い。普段とは違う雰囲気を漂わせている彼に心を惑わされていた、なんて知られなくって本当に良かった。
 先ほどとはまた違った呼吸困難に陥った彩華は大きく息を吸った。
 鏡は見ていないけれど、きっと顔が赤くなっている。まずは水でも飲んで落ちついて、詠に何か用意しておこう。
 そう思った彩華は、ゆっくりと部屋を出ていった。



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