たいじや -鏡の月- 11
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 詠が戻ってくると、ふたりはベッドに寄りかかるように並んで座った。彩華の部屋で彼が仔狼の姿に変化していないときの定番である。
 盆に手を伸ばした詠は、小さな握り飯を掴むと口へと運んだ。僅かに目元を和ませてゆっくり咀嚼する。
 握り飯はどうしようかと悩んだ末に彩華が用意した。別に食べなくってもよいのだからお茶だけでいいかなと思ったが、多分喜ぶだろうと考えたのだ。そしてその予想は正しかったらしい。
 自身の湯飲みに口をつけながら彩華が顔を綻ばせた。
「ごちそうさまでした」
 詠の顔が幸せを噛みしめているように見えて、彩華はこみ上げる笑いをこらえきれずに吹きだした。
「行儀の悪い」
 彼女の様子を見た詠が目を眇めた。だが、たしなめるその言葉には非難めいた響きはない。
「ごめん」
 素直に謝るが、久しぶりのやりとりに妙な照れくささが残るのか、彩華の顔は緩んだままだ。
 双方とも纏う空気は甘く柔らかである。
 詠の肩にこつん、と頭をもたせかけた彩華はしばし目を閉じた。彼女の口元には安堵の笑みが浮かんでいる。
 互いの鼓動が聞こえるほどの静けさの中、無言の時間が過ぎていった。
「それで、もう体調は大丈夫なの?」
 やがて顔をあげた彩華が穏やかな口調で問うた。
 人型を取れるようになるまでに二日ほど必要としても、人界(こちら)へ戻ってきたということは問題ないのだろう。そうと理解していても、やはり気になる。
 横に座る詠に向ける視線には不安の色が滲んでいる。
「ああ。それよりお前、また妙な物拾ってきたな?」
 妙な物、とは、例の鏡のことだ。
 神社へ帰ってきた彩華は、鏡を保管庫へとしまっておいた。月の神と関係があるらしい物をそこいらに放っておくわけにもいかない。結界が張ってある保管庫ならばまず間違いはないと判断したのだった。だが、それでも気配は感じたのだろう。当然といえば当然なのではあるが。
「必然的に持って帰ることになってしまったというか……」
 歯切れ悪く自身の知っていることを話した彩華に、詠は飽きれまじりに息を吐いた。
「で、あれって何なの? 詠のそっくりさんとかも出てくるし」
 得た情報を整理して、ぼんやりとではあるが話は繋がった。しかしそれは想像でしかないし、当事者がいるのだから真実を知りたい。
 真剣な眼差しで話しかけてきた彩華に、詠は苦笑しつつ答える。
「ドッペルゲンガーとか」
「真面目に答えてる?」
「もちろん」
 少しおどけた口調で話す詠を上目遣いで睨みつけると、彩華は身体をずらして彼の目の前に正座した。腕を組んで無言のまま、ただ詠の顔をじっと見つめる。
 やがて詠は少し困惑した表情で口を開いた。
「他に俺が話せることはない。麻布都が言った話が正解。……不本意だけどな」
 僅かに目を尖らせて遠くを見つめる仕草をする。
 怒りの矛先は自分そっくりな男に対してなのか麻布都に対してなのか、はたまた古の術者に対してなのか、彩華にはわからなかった。きっと全部なのだろうと彼女は思い至った。
 麻布都とどうしてそんなに相性が悪いのかと、彩華は何度か尋ねたが、教えてはもらえなかった。話したくはない事情もあるだろうから、無理には聞かないようにしていたが、詠と麻布都ふたりだけの秘密がありそうで、とっても嫌だ。
 自分の考えに彩華はやや不機嫌そうに頬を膨らませて感情を表した。
「また何を考えている?」
「麻布都、ずいぶん詳しそうだったんだけど、どういう関係?」
 まっすぐ向けられる彩華の視線を受け止めて、詠は優しく微笑むと、彼女の髪を愛おしそうに撫でた。
「心配するような関係じゃない。――お前と似た立場だから詳しいだけだ」
「わたしと同じ? どこかの神社の巫女、とか?」
 しかも、巫女の前に特殊な≠ニいう言葉がつく。
 彩華が首をかしげた。それならば、あの人間離れした物腰も納得がいく。
「ああ。…………正確には違うけれど。俺のこともあれははっきり口にしないんだから、そのあたりは教えられなくても割り切ってろ」
「……わかった」
 歯切れの悪い詠の物言いに、彩華は不満げな顔をしたが、やがてこっくりと頷く。
 素直に頷く彩華の髪を再度撫でて、詠が優しく笑んだ。
「じゃあ、話を元に戻していい? 有紀ちゃんが見た男と、わたしが会った男は同一で、その男はおそらく大昔に月詠尊の複製しようとした儀式と関係している。儀式はおそらく成功していて、月詠尊はまんまと力を取られた、と」
「…………はっきり言うな」
 時計の秒針が一周回るくらいの時間を置いてからぼそりと呟いた詠が、幾分か傷ついたような目で彩華を見つめ返した。
「ごめん。――儀式って、詠は気づいてたんだよね? 当時の術者が止めたって聞いたけど、それってわたしの祖先なの?」
 いいや、と詠は首を横に振った。
「高村家はまだこの土地へ来ていない頃の話だ。ろくでなしどもは潰すの簡単だったんだがな。鏡の行方だけはどうにも掴めなくて。跡形もなく壊れたんだろうと思っていたんだが、何百年も経過してから発見されるとは」
 詠は少々驚いた様子だ。
 今までわからなかったのは、蛇の精霊たちが創った霊力の籠で気配が遮断され、なおかつ放置されていた場所が月詠尊を祀る神社と近すぎた結果なのだろう。
「鏡に映った月、か……」
 それだけ言った詠は僅かに目を伏せると黙りこんだ。
 本物そっくりの鏡像。人為的に作られた二つ目の月は、呪具の鏡に封印されたまま長い年月を経た今現れた。
「――凶変の予兆……とか」
「それはない」
 恐る恐るといった風の呟きを、詠はやけにきっぱりと否定した。
「なんでよ」
 拍子抜けして、ぽかんと口を開いた。彩華は意味がわからないといった表情を浮かべている。
 凶事に使われた鏡から生まれた妖のようなモノ。それが自我を持って存在し、歩き回っている。本体と入れ替わろうとしているのか、それとも別の理由があるのか。アレが何を考えているのか、今の段階ではまったくわからない。
 それなのに、なぜ彼がしれっとしているのか、彩華には見当がつかないでいる。
 詠はしばらく目を閉じて黙考すると、
「俺の複製だから」
 頬にかかる銀髪を掻きあげた。絡みのない柔らかな長い髪は、彼の余裕さを物語っているようだ。
「……あっそ」
 本気で心配すると自分が馬鹿をみそうだ。
「ふざけてないぞ。そいつが悪鬼の類ならお前はとっくに喰われてるか、嬲り殺されていた」
 内側からじわじわと蝕み消滅へと導いていく術を、あのとき自分が受けることになっていたら――ふいに、妖の命が尽きてゆくさまを思い出した彩華は、ぶるりと身震いした。悪意を向けられなかったから良かったものの、攻撃されていたら、今頃この世にはいなかったはず。
 あの男に敵意は感じなかったが、その双眸は冷たい印象をもたらしていた。
 彩華は無意識に伸ばした指で詠の衣をぎゅっと掴んだ。
「荒ぶる魂も、別に気の赴くままに暴れたい訳じゃないからな。悪意があるならこの世へ出てすぐ行動起こすだろうし」
「――ごめん。聞いてなかった」
 我に返った彩華が詫びる。
「あぁ……独り言だから気にするな」
 詠は気にしていない素振りを見せるため目元を和ませた。
 それに返すように小さく笑うと、彩華は唇に人差し指をあてて考えるような仕草をする。
「ねぇ……彼が目の前に現れたら、どうするの?」
 ずっと思っていた疑問を口にする。いずれは会うことになるだろう。
「月がふたつもあったらバランスが壊れるから、やっぱり……排除、なの? 月詠の霊力から生まれたのなら元に戻せないの?」
 詠は何も言わず彩華を見つめ返した。しばしの逡巡のあと、
「俺の霊力を分け与えた緋月を俺に戻すのは無理だ。文字通りこの世から消して、大気に溶かすしか方法はない」
 一度個体として存在したら、たとえ分身でも簡単にはいかないと言った。
「それじゃあ、彼は――っ」
 彩華は手を口元にあてがい言葉を止めた。
 欠伸を噛む姿を見た詠は彼女を抱きあげると、有無を言わさずベッドへと放りこんだ。何か言いたげな彼女の顔を黙殺して、掛け布団を肩まで引きあげる。
「どうするかは俺が考えているから今は休め」
 子供をあやすように詠が頭を撫でていると、諦めて目を閉じた彩華から安らかな寝息が聞こえてきた。
 暗闇の中、淡い月光だけが彩華の顔を照らしていた。



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