雲ひとつない抜けるような青空が広がっている。 けたたましい音と歓声が頭上から聞こえ、彩華が眩しそうに空を見上げると、ジェットコースターのレールが目に入った。今のはコースターが走り去る音だったようだ。 風もなく穏やかな陽気の中、園内には楽しげな話し声や笑い声が絶えず溢れている。 開園してからもう何十年と経つのだが、人気は衰えることはなく、休日はかなり賑っているようだ。 敷地内に設置された花壇には鮮やかな花々が咲きほこり、毎日来園者たちを歓迎している。植物だけでなく、ライトアップも季節ごとにその表情を変えるため、何度来ても楽しめるのだろう。 「お、チュロス発見」 「どこ? わたしも食べたいな」 地元ではあまり見かけない菓子に食指が動き、彩華は辺りを見回した。 詠の視線を追うが発見できなかった。甘い香りを漂わせているポップコーンの出店は近くにあったが、目的のものは見当たらない。 「ずっと向こう。……人の目じゃ見えないところ」 幾分か音量を抑えて詠が答えた。 ふたりの横を親子連れやカップルが足早に通り過ぎてゆく。最近新しくできたというアトラクション目当てであろう。みな一定方向に歩いている。 傍を通った来園者の鞄が当たりそうになり、彩華は慌てて避けた。その拍子にバランスを崩した彼女を詠が正面から抱きとめる。 気恥ずかしくなりながら彩華ははじかれたように離れた。 「――なんだ?」 「なんでもない。ありがと」 着飾らなくても華やかな雰囲気を持つ男と一緒にいると、立っているだけで注目されやすいのだ。必要以上に目立つことはない。 こっそり周りに視線を向けるが、幸いなことに目撃はされなかったようだ。気にしすぎだったかと、彩華は胸を撫で下ろした。来園者たちも、夢と希望の溢れる遊園地で、赤の他人になど構っていられないのだろう。 今日は平日のはずなのだが、そのわりには人が多い。平日休みの職場か、創立記念日で学校が休みなのだろうか。修学旅行もありえる。 「別の日にした方が良かったかな……」 「いつでも一緒じゃないか?」 そう言いながら、詠は右手の指をぱちんと弾いた。小さな音とともにふたりの足元に纏わりついていた影が消滅する。 「思っていたよりもさほど悪化していないし、これならこっそり片付くだろ」 「そうだねぇ……」 彩華は、ふっと遠くを見つめて呟いた。目を凝らすと僅かに視界が濁っている。うっすらと漂う邪気が視えて、目を険しく細めた。 人の集まる場所には活気が満ちる。だが、その裏には怪しげな影が潜んでいる。人の精気を狙うモノや、楽しげに笑う姿を妬むモノ。そういった異形が集まってくる。 しかも、こういった広い土地は、大昔城が建てられていた跡地であることが多いのだ。落城していたのならば、特に強い念が残りやすい。そうなるとますます悪しきモノが吸い寄せられる場所になる。 「前に来たのっていつだ?」 問われた彩華はしばし思案した。 「えーと……わたしが小学生の頃じゃないかな、たしか。詠ってどうしてたっけ?」 「ひとり寂しくお留守番」 家族水入らずの遠出だったのを彩華は思い出した。――いや、あれは家族総出の調伏退治と言ってもいいのかもしれない。実際には父親ひとりが行っていて、当時の自分たちは普通に遊んでいたのだが。 一番最初の調伏退治が入ったのはもうずっと前のことで、それこそ彩華の父親が生まれる前だ。人間の霊力では完全に消し去ることは叶わず、こうして定期的にアフターフォローすることになっている。 その後友人たちと数回遊びにきたが、外法師として特にすることはなく、ひとしきり遊んで帰った。 本日の一日パスポートは、オーナーからの好意でプレゼントされた。 「別にいいのにね」 「五千円程度の入園料ケチって事故が起こるよりいいと思っているんだろう」 そうなのだろうが、調伏依頼料は別途支払われている。 太っ腹な依頼人に感謝しつつ、彩華は目の端に映った黒い影を短い神呪で退けた。人の耳には聞こえない断末魔をあげて、妖はあっという間に掻き消えた。 「どうしよっか。行きたいところある?」 彩華が園内の地図を広げて尋ねた。 よほどのことがなければ休園にはしない、他の来園者には気づかれぬようにできるだけこっそりと、との依頼人の意向を受けている。閉園時間まで時間はたっぷりあるから、細かいところまで確認できるだろう。だが、効率よく行いたいところだ。すべてが短時間で済んでしまえば、残りは自由時間となる。 調伏退治を抜かせば久しぶりの遠出だ。目一杯遊び倒したいという欲求が彩華を襲う。 でも依頼優先だ。それは忘れていない。 「どういう回り方でもいいが。お前の好きなようにしていいぞ」 「じゃあ、チュロス食べたい」 こういった場所でなければなかなか食べられないし、と至極真面目な顔をした彩華が呟いた。 「最近感覚が俺に似てきたか?」 「そんなことないでしょ。わたしは昔から食べたい物を食べたいときに、がモットーだもの」 「それはいい座右の銘だ」 本気なのか冗談なのか、どちらとも取れる口ぶりで詠が頷く。 彩華の願いを叶えるべく、詠は彼女の手を握ると、目的の方向へと視線を向けた。 遊園地の一角にあるベンチに座ると、彩華は小さく息をついた。 天気は良いがさほど暑くもなく過ごしやすいかと思っていたが、やはり歩き回っていると少し汗ばむ。 ふたりは途中で購入したジュースでしばし休憩することにした。 自然景観と日除けを兼ねて植えられた木々の間を風が吹き抜けてゆき、詠が気持ちよさそうに目を閉じた。 ジェットコースター、メリーゴーランド、ゴーカート――などなど。久しぶりの遊園地を謳歌して、彩華の目はいつになく輝いている。 「楽しそうだな」 「すっごく楽しい」 返ってきたご機嫌な声に詠が苦笑する。 昼に入ったレストランは美味しかったし、アトラクションの待ち時間に遭遇したミニパレードは、夜のものに負けず劣らずで煌びやかだった。夜はもっと綺麗だろう。 楽しすぎて、うっかり本来の目的を忘れそうになるほどだ。 「疲れたならもうちょっと休む?」 飲み終えた紙コップを捨てに、軽い足取りでベンチから立ち上がる。戻ってくると彩華が尋ねた。 「俺は疲れんから」 目を閉じたまま詠が答えた。 霊力が弱まればそれなりに気だるく感じるのだろうが、人間と違って疲れることはない。暑さや寒さも自動シャットアウトしてしまうそうだ。 「でも、今日って月蝕でしょ?」 「多少の影響はあるだろうが、たいした問題じゃない。それに俺は、高村の人間とは違う」 彩華たち高村の者は、陰陽道を操り月を崇め祭る一族の流れを汲んでいる。そのせいか、新月の時期は霊力が弱まり、逆に満月の時期には最大限の力を発揮できる。もっとも、元々の素質や修練によって個人差はあるのだが。 「そう? じゃあ、どこか行きたいところある?」 返答にほっとして、彩華は無邪気な笑顔を見せた。 詠は薄く目を開けて何かを探すように周りを見回す。口元がほんの僅かだが緩まったのには、彼女は気づかなかった。 「……あれ、まだだったよな」 「え、どれ?」 詠が指差した方向を見やって顔をひきつらせた。 「行くか」 立ち上がり、詠は彩華の肩を軽く押す。 「ちょ……」 彩華の動揺はお構いなしに、詠は彼女が逃げられないように自身の腕を絡めると、半ば強引にお化け屋敷の入口へと向かった。 「ちょっと待った! どういう嫌がらせよっ」 腕を無理矢理振りほどき立ち止まる。ふたたび捕まらぬように詠から数歩離れた彩華は、全身の毛を逆立てて警戒している子猫のようになっている。 「なにがだ?」 「なにがだ、じゃないっ」 わたしが大嫌いだって知ってるくせに。 「中は多少涼しいだろうし、気分転換にいいだろ」 「嫌」 彩華は素っ気なく言葉を発した。 「あんなもの作り物だろう?」 「だから余計に嫌なのよ」 大勢の妖を相手にするのと、作り物のお化け屋敷では勝手が違うのだ。 「……調伏は平気なのにな。同じ場面に遭遇しても顔色変えずに倒してるくせに」 「作り物と本物は違うのよ」 わざわざ恐怖を味わおうなんて人の気が知れない。あの、人間を驚かせてやろうという作りが心臓に悪いのだ、と彩華ががなる。驚かせてやろう≠ニいう気持ちは、異形にもあるのだが、そこは本人は違うものと考えているらしい。 「ああいった暗い場所には異形も潜みやすいだろう? 行かないで、何かあったらどうするんだ?」 などともっともらしいことを言う詠の目尻が僅かに動いたのを見逃さず、彩華がぎろりと睨みつけた。男の考えに本気で怒った様子で眉をつりあげた。だが、当の詠はそんなことは露も気にせずに黙って彩華の次の反応を待っている。 道行く人々が、何事かと好奇の視線をふたりに向けてゆく。往来で男女が騒いでいればかなり目立つ。 バツが悪くなった彩華はほんの少し怒りを治めると詠に向き直り、 「じゃあ、わたしは出口で待っているから行ってきて」 無駄だろうと薄々わかっているが交渉を始めた。 「駄目だ。それにひとりで入ったってつまらん」 こいつ、やっぱり人が嫌がっているのを楽しんでいるな。 彩華は大きな眼を半眼にして再度目の前の相手を睨みつけ、口を開いた。 ――風破。 短い言霊は風を巻き起こし、ふたりの霊力に惹かれて寄ってきた悪しき影へと襲いかかった。 遊びに来ている来園者たちは、少し強い風が吹いたとしか感じない。近くを歩いていた女が、軽い悲鳴をあげて帽子を押さえているだけだった。 術の発動した方向へ目を向けなくても浄化したのは気配でわかる。彩華は黙ったままじっと詠を見据えた。 詠はというと、今更隠す必要はないと思ったのか、意地の悪い笑みを浮かべて彩華を見つめている。 「そんな風にいい加減な術者に育てた覚えはないぞ?」 「育ててもらった覚えもないわ」 負けじと彩華が言い返す。実際、子供に対しての教育も、術の教えもすべて父親か母親からだ。もちろん月詠尊から教わったことも少なくはないが。 ぱちんと彩華が指を鳴らした。それだけで力の弱い妖は消え去る。 男女が言い争いながらの調伏。この光景は、かなり異様だ。第三者がこの場にいたならば「もう少し真面目にやれ」と突っ込みが入りそうである。 ――しばしの沈黙がこの場を支配した。 「冗談はさて置いて――」 と、唐突に真面目な顔をした詠に嫌な予感がしつつ、彩華は唇を噛んで彼の言葉を待った。 「月詠尊は必要以上には手を出さない、という約束だろう? ――あまり我侭を言うのなら、ひとりで行かせるぞ」 相手の思うツボに嵌ってはいけない。が、彼の言っていることは正しい。神の力に頼りすぎれば、人はいずれ破滅する。 「……わかった……行きます」 がっくりと項垂れて、彩華は渋々承諾する。 詠が楽しげに目を細めたのは、見なかったことにした。 |