たいじや -鏡の月- 14
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 おどろおどろしい雰囲気の建物の前で、彩華は一瞬立ち止まった。
「どうした」
 腹の立つほど爽やかに笑う詠に殴りかかりたくなったのを必死に耐えて、彩華は嫌々足を進める。
 あと少しで入口というところで、ふたたび彩華が足を止めた。
「…………」
 眉をひそめて、それ以上歩けないでいる。
 詠に連れてこられたお化け屋敷は西洋が舞台らしく、外観はレンガ造りの洋館だ。廃墟となった洋館を探索するアトラクションらしい。割れたガラスや崩れた外壁が陰惨な雰囲気を醸しだしている。
 せめて、乗り物に乗ったら出口まで連れてってくれるライド型お化け屋敷だったらよかったのに。別の遊園地で入ったお化け屋敷は、幻想的で綺麗で怖くなくって、とっても面白かったのに。
 心の中で彩華が愚痴る。不幸なことに、ここは最後まで歩くタイプのお化け屋敷だった。一度入ったら最後。出口まで自身の足で歩かねばならない。
 入口に立っているスタッフの笑顔ですら恨めしい。しかし関係のないスタッフに八つ当たりするわけにも、助けを求めるわけにもいかず、彩華は渋々詠のあとに続いた。
 中は当然暗い。道案内用の薄暗い明かりがところどころ点いているだけだ。
 入場者の不安を煽る効果音は、まだ入口付近だというのに彩華を戦慄の恐怖へと陥れた。詠にしっかりと握られた手を引かれるが、彩華は一歩も動けない。
「仕方ないなぁ」
 苦笑して、詠は一度彩華の手を離すと、自身の背中側から彼女の腕を回させた。詠の腰に両腕を回し、背中にしがみついている格好だ。
 背中に顔を埋めると、彩華の視界には詠の姿以外入らなくなる。僅かに肩の力を抜いた彩華は、詠に促されるまま足を動かした。
 詠にしがみついているおかげでアトラクションの内容はほとんどわからない。だが耳栓をしているわけではないから、視界が悪い分、耳からの情報が多くなる。
 水の落ちる音。何かが這いずり回る音。雷が落ちたような、耳をつんざく爆発音。先に入ったらしい来園者の悲鳴が遠くで聞こえ、彩華は一層腕に力をこめた。
「苦しいぞ」
「うるさい馬鹿」
 くぐもった声で彩華が罵った。だがその声には覇気がない。
「……置いていかないでよ」
 冗談でも腕を振りほどかれて先に行かれてしまったら、腰が抜けてきっと歩けない。
「……それは面白そうだが、離縁状叩きつけられそうだから止めておこう」
 彩華が呟くと、しばらく思案したあとに、のんびりとした答えが返ってきた。
「する気はないけど、近いことはする」
 弱々しい彩華の言葉を聞いた詠は、くつくつと喉を鳴らして笑っている。
 面白がっている詠の様子にムッとした彩華は、彼のわき腹をつねった。が、当人はまったく意に介していない。
 所要時間は二十分程度のはずなのだが、それ以上に長く感じる。早く出口にたどり着かないかと、彩華がそればかりを願っていたそのとき。
 ――金属を力任せに叩くような音が聞こえる。
 それに気づいた彩華は恐ろしさに息をつめた。
 突然前方からあがった咆哮に、彩華は身の毛がよだつのを感じた。喉がひきつれて悲鳴すらもあげられない。
 お化け役は行動範囲が決まっているのか、ふたりがお化けと一定の距離を取るとそれ以上は追ってこなかった。だが背後から壁やガラスを叩く音が聞こえるせいで恐怖感が募る。
 自身の手に重ねられた詠の大きな手に、彩華の恐怖心が少しだけ和らいだ。
「こんなもの楽しむ人の気が知れない」
 小さな声でぼやいた。どうしてわざと心臓に悪いことをするのか。それが不思議で、彩華は思わず考え込んでしまった。
 度胸試し? そんなことをして何か良いことがあるのか。人間、遅かれ早かれ寿命は必ずくるのだから、あえて縮める必要はあるのか。大体、面白半分で危険区域に近づく大馬鹿者たちがいるせいで、術者が死にそうな目に遭うこともあるのだ。助けを求められれば可能な限り手を貸すが、自業自得と切り捨てたくなるときも、たまにある。事の真偽を(ただ)したら被害者が実は加害者でした、なんてこともある。その怒りの矛先は、一体どこにぶつけたらいいのか――。
 彼女の心を読んだかのように詠が笑みをこぼした。その顔を彼女が目撃したならば、不機嫌そうな表情をしたであろう。そんな意地の悪い笑みだ。
「彩華」
「――っ」
 声をかけられた彩華は驚いて肩を揺らした。
「出口だぞ」
「本当だ……」
 そっと背中の影から前方を覗くと、外の明かりが見えた。安心したのか、彩華は安堵を漏らすとともに腕の力を抜く。意識を飛ばしていたおかげで、後半の恐怖は一切なかった。恐怖の代わりに軽い怒りが彩華の心を染めあげていたのだけれど。
 さぁ出口だ。彩華がほっとしたその直後。
 地の底から轟いてきたような化け物の低い声と爆音に、彩華はそれまで耐えていた悲鳴を、とうとうあげた。
 ――最後の最後で寿命が縮まった。
「ふ……ふふ……」
 人間恐怖を感じると感覚が麻痺して笑いたくなるらしい。
 詠に手を引かれてやっと外へ出ることができた。地面に目を落として彩華は顔をひきつらせている。
 ふたりが外へ出ると、西の空が茜色に染まりはじめていた。
 彼女の傍で陽炎が揺らめいた。
 あんぐりと口を開いて頭から彩華の霊力を飲みこもうとした妖は、彼女がひと睨みすると簡単に霧消した。
 大きなため息を吐いて空を仰ぐ。夕方になりつつも今なお降り注ぐ陽の光が非常に懐かしい。久しぶりに感じる外の空気を存分に吸いこんだ彩華は、晴れわたった空を見上げて満面の笑みを浮かべた。
 生きて帰れて本当によかった――などと今にも言いそうである。
「簡単に心を乱していると、そのうち異形につけこまれるぞ」
 不意に背後から声をかけられて、彩華は振り返った。
「……笑いながら言われても説得力ないんですけどー?」
 まさか今のが修練なんて言わないでしょうね、と彩華が目を尖らせた。
「修練になるかもな。もう一度入るか?」
 呆れた彩華は声もない。
「わたしが暗闇が大っ嫌いとか、幽霊が大っ嫌いで仕事にならないっていうなら必要だと思うけど」
 平気なのだから必要ない。本物の洋館で怪奇現象が起きているから調伏退治に行ってこい、と依頼があったなら、ひとりでも行く自信が彩華にはあるのだ。
「大体、春頃にも人を謀ってホラー映画に連れてったし!」
 詠とふたりで行ってこいと、兄からチケットをもらって観に行ったはいいが、内容は身の毛のよだつホラーだったのだ。あのときの詫びはふたりにしてもらったけれど、今日はどうしてくれようか。
 彩華は険しい目で睨みつけながら詠ににじり寄った。その勢いに詠が若干怯えた顔で後ずさる。上目遣いに睨みつけると、詠は口元をやや引きつらせた。
「……今言い争って時間を無駄にすることないだろう?」
 時計を眺めてそんな提案をする詠を彩華は鋭く見つめるが、はっと気づいたように怒りを収めた。
「彩華?」
「そうだ。観覧車」
「観覧車?」
 慌てて地図を確認している彩華の様子を見た詠の顔には、訝る表情が滲んでいる。
「こっちに行くと近道かな?」
 誰に尋ねるわけでもなく呟いた。
「……観覧車に乗りたいのか?」
 恐る恐る詠が尋ねる。
「そうよ。ここは夕方の景色が綺麗だって聞いたの」
 園内にある大観覧車のことを指している。一周十五分ほどの空中散歩が楽しめる。
 夜のイルミネーションは前回体験済みだから、今日は夕方を楽しみにしていたのだ。せっかく来たのだから、見逃したくはない。
 彩華は先ほどの不穏な空気など、もうすっかり忘れた様子で、園内の地図とにらめっこしている。
「それなら急いだ方がいいんじゃないか? もう太陽沈みかけてるぞ」
「うん」
 彩華は素直に頷き、観覧車の方へと向かった。
「詠? 置いてっちゃうよ」
 数歩歩いたところで彩華が立ち止まり、振り返りながら言う。
「――今行く」
 その後姿をしばらく眺め、うまく話をそらせることに成功したと、詠はかすかに安堵していたのだった。

 窓から見える景色が遠くまで見渡せるようになってきた。
 大観覧車の中で彩華と詠は向かいあわせで座り、黙したまま遊園地が夕日に染まっていくのを楽しんでいた。
 行列ができているかと心配であったが、夜のパレード目当てが多かったらしく、さほど並ばずに乗ることができた。地上を見やれば、パレードの場所取りらしい人影が見える。
 観覧車自体にも装飾が施されており、回転アームにある明かりが一秒ごとに点いてゆく。夜にはライトアップもされて、地上での待ち時間の間も楽しめるようになっているのだ。
「高いねー」
 地上を見下ろすと人が豆粒のようだ。
 彩華は視線を動かし、自分たちが遊んできたアトラクションを目で追っている。こうして観覧車に乗ると、遊園地全体が見渡せてなかなか面白い。
「……」
 お化け屋敷が目に入り、一瞬動きを止めた。
「どうした?」
 詠が何の気なしに問いかけると、彩華はにっこりと笑った。
「……彩華?」
 笑顔なのに、詠は寒気がするほどの威圧感を覚える。
「さっきの、忘れてないからね」
 観覧車は不穏な空気など関係なしにゆっくりと空を昇ってゆく。
 ある種の密室であるから、詠は逃げ出したくても逃げ出せない。その気になれば可能なのだが、そんなことをしたら事態が悪化するのはわかりきっている。
「わかってる」
「それならよろしい」
 彩華が腕を組み足を組み――偉そうな仕草をすると顔を見あわせて笑いあう。
 ひとしきり笑ったあとは自然に無言となった。やがてふたりの乗った観覧車が頂上に着くと、彩華が感嘆の声を洩らした。
「やっぱり高いところって眺めがいいね」
 だが下を覗くとさすがにちょっと怖い。
 ガラス越しに遥か地上を見下ろすと今にも吸い込まれそうな錯覚に陥る。軽く身震いをして、彩華は座り直した。
 半分以上過ぎたところで、観覧車が金属の軋む音とともに揺れた。強風が吹いたわけではない。地上からの振動が伝わってきた感じだ。
「……パレードは見れない、かな?」
「だな」
 パレードも見たかったし、アトラクションで夜景を楽しみたかったのに、と彩華は眉をしかめた。
「休みの日にまた来ればいいさ」
「うん」
 地上に視線を走らせると、彩華はじっと目を凝らした。ところどころに黒いもやが集まりだしている。次に西に目を向けると太陽を確認する。あと数分で完全に姿を消すだろう。
 彩華は唇を軽く噛んで思考を巡らせた。
 闇をも照らす太陽の光が届かない夜は異形たちが猛然と活動する時間だ。そんな禍々しい夜を抑圧しているのは、空に浮かぶ月。されど月神の拘束を何なく弾いてしまうモノも中にはいるのだ。
 今宵は満月だが、月蝕がある。
 月のない夜は、闇に紛れて妖が蠢きやすくなる――。
 詠が彩華の持っている地図にざっと目を通すと、同じように下を見下ろした。
「……一体一体は滅茶苦茶弱いな」
 昼の間に園全体を回って結界は強化した。それに園内はイルミネーションで明るいから、妖たちの動きは制限される。来園者が万が一襲われたとしても、軽い切り傷程度で済むだろうと詠が呟いた。
 ふたりを乗せた観覧車は、まもなく地上へ降り立とうとしていた。



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