本殿の入口で彩華を見送った月影は、不意に耳をそよがせた。背後によく知った気配を感じ取って振り返る。 何もない空間が歪んで裂け、そこから青白い月光が零れ落ちた。空間から現れた男は、背中の中央辺りで緩く纏めた長い銀髪をなびかせて床に降り立つ。 「おーおかえりー。りんご全部食べたぞ」 「…………。何の話だ」 唐突に意味不明なことを聞かされて、月の神は顔をしかめた。 「彩が持ってきた。まだあるって言ってたから、食べるなら自宅行ってこい。彩も今戻っていったところだ」 「そうか」 月詠は短く返答すると胡坐をかいて床に座った。疲れているのか、しばしぼんやりとしたまま身動きしない。時折、目を閉じたり遠くを見るような仕草を繰り返している。 小首をかしげるようにして見上げると、月影はその顔をじっと見つめた。何をしているのか聞かなくてもわかったから、彼はしばし黙って待った。 心配はないとはいえ、やはり気になるのだろう。主の不在時に手を出す命知らずも、ごくたまにではあるがいる。大抵は結界に阻まれて侵入できないか、あっという間に浄化してしまうのだが。 しかし、余計な干渉をされるのは気分が悪い。 月詠はこの月詠神社に張り巡らせてある結界に問題がないことを確認すると、安堵の息をついた。 「――問題ないな」 ややあって月詠が呟く。 喧嘩を売る不届き者はいなかったようだ。 「オレがいるのに信用ないなー傷つくなー」 月影が僅かに口を尖らせて言った。その言葉の割にはけろりとしている。 「戯れ言を」 呟きに尻尾を左右に揺らして答えると、月影は笑みを覗かせている月神の前に座った。 月詠は、人型を取ろうとして霊力を変化させかけるが止めた。今は夜で、本殿は人間が入らぬ聖域だ。本来は神職の者ですら入ってはならないとされている。誰にも見られる心配はないから、人間の姿をとる必要はない。 「なんだ? 耄碌して上手く変化できないのか?」 軽口をたたいた月影が宙に浮いた。月詠が首根っこを掴んで持ち上げたのだ。 「なにをする」 ぷらーんと手足を垂らして月影が半眼で睨みつけた。月詠は涼しい顔でそれを受け流して続ける。 「いや。俺って口が悪いなと、改めて思っただけだ」 抑揚のない声音で告げると「そうだな」と返事が返ってくる。これには月詠は苦笑するしかなかった。 神は荒御魂、和御魂のふたつを持ち合わせている。荒々しい側面は人々に試練を与え、優しい側面で人々に恵を与える。この極端な二面性は珍しくもない自然な状態だ。 ひょんなことからふたつの存在に分かれた月詠≠ニ月影≠ヘ、その性質はほぼ同じである。若干、月影の方が嵐に似た印象が強いのだが、かといって月詠が温厚な性格かと言われると、そうでもない。彼には保食神を斬り殺す武勇伝≠烽る。 月詠は、黒猫の姿のままの月影を膝上に降ろすと、少し真顔になって訊ねた。 「変わったことはあったか?」 「あったぞ」 こちらも真剣な表情をして尻尾を一振りすると、 「西洋の化け物がうろついてるな」 彩華に話した内容を繰り返した。 話を聞いた月詠は興味津々といった声を上げる。 「血を吸う木の化け物、か」 最近は吸血樹の存在など忘れかけていた。古の時代や山奥ならばいざ知らず、自然が少なくなったこの辺りでその名を聞くとは思わなかった。 頭を振った拍子に肩にこぼれた長い髪を無造作にかきあげて、月詠は嘆息した。 「それで、お前の見立てではしばらくは動かないのか?」 月影が首肯する。 「結構特殊な植物……いや、化け物……植物?」 頭が混乱しているかのような言い方だ。焦れた月詠が促すように咳払いする。 「どちらでもいい」 「んじゃあ、妖樹」 最初からそう言えばいいものを。 月詠がじろりと睨みをきかせるが、当人は飄々としている。 「妖どもが活発になるのは大抵夜だ」 暗闇はすべてを覆い隠す。人間は夜目が効かないから、姿を見られずに行動するには好都合だ。 「一回目の活動がついこの間の新月の夜」 女生徒が襲われ、月影が追い払った日のことだ。 「その前に、野良猫から『嫌な気配がする』って聞いたのが、満月の夜」 「……間違いはないのか?」 月詠の目が鋭く光った。 妖は光を嫌う。日光ほどではないが月光も同じだ。たとえ行動可能でもその動きは制御される。――なのに、妖樹は月が最も輝く夜に、獣が察するほどの妖気を漂わせていたのか。いくら変化に敏感だと言われても信じがたい。 月影が一度尻尾を振って肯定を表した。 「別に珍しくもないだろう? 月に狂わされるなんてのは、異国だけの言い伝えじゃない」 月影は異国――西洋の伝承を指して言っている。 古来より月には不思議な魔力があり、特に満月の夜には様々な現象が起きると言われている。西洋でも東洋でも、月は神秘の対象のひとつであった。 吸血鬼、狼男、魔女など。月と深く関係する異形は多々生息している。血が騒ぐのか、満月の夜にそれらが動き、異質な事件が起きるという。 中には、活動するために欠かすことのできない食事≠ナ生物を襲うのではなく、衝動の赴くままに殺戮のみを楽しむモノもいる。暗闇よりも良いというだけで、月明かりがあるから妖が行動しない訳ではないのだ。それらを考えると月は死や魔の象徴と言えよう。 とはいえ、月は死を連想するものばかりではない。 異国の神話では、月の女神は夜道を行く旅人の守り神として崇められている。一方では、人身御供を要求する残酷な神として描かれている。伝承の地域によって象徴するものが変わってくるのだ。 「にわかには信じられないが……」 長く下界に身を留めているが、満月の夜に妖が活動していると聞いたことはない。 だが……と月詠は思い直す。 己が見たことがないからありえない、と決めつけるのは危険だ。異国の文化が入ってきたように、異形がやってきてもおかしくはないだろう。他の土地では今までもあったのかもしれないし、突然変異で苦手を克服というのも可能性としてありえる。 神妙な面持ちの月詠を真下から覗きこみ、月影は言葉を続ける。 「オレも最初は信用してなかったさ。だが、訴えられて無視する訳にもいかないからな。すぐに妖気が漂っているって場所に行ってみたが……」 まったくと言っていいほど気配が消えていた。 その出来事を思い出しているかのように月影は片目を眇めた。 「妖気の残滓を追って地下に潜っても良かったんだがな。臭そうだから気は進まないが。その方が手っ取り早いし。でも一匹のために余計なのまで消しても、な」 明るすぎる現代の街から逃れ、地下で息を潜めている妖もいるだろう。 陰陽、正邪、天地、吉凶――物事には対極の二つが必ずある。 ひっそりと闇の中で息づいているモノをあえて消す必要性はない。陰と陽。闇の中で蠢く異形と光の下で生きる人間。保たれている均衡が崩れてしまったら、何が起きても不思議はない。 「妖の情報が少なすぎるから、むやみやたらに探し回るよりは、いっそのこと次に暴れるまで待ってもいいと思うぞ」 しばし逡巡した後、月詠が頷いた。しかし心の奥では納得していないらしく、眉間に皺がよっている。 「……」 軽快に尻尾を振っている月影の口角があがった。 「なんだー? 月の存在が穢された気になるのかー?」 月詠がじろりと睨みつけた。含みのある言い方が癇に障ったのだ。が、月影はそれを気にもとめず笑い続ける。 「仕方ないだろう。八百万は荒和の両面を持っているんだから。今更じゃないか?」 「……お前に諭されるとはな」 「ま、荒い方はオレが引き受けてやっから。ふたつでひとつ、ってな」 月詠は、にやりと笑う黒猫の顔をふと真顔で見下ろし、 「……もう人型は取らないのか?」 気になったことを口にする。 「お前の容姿と変えるのも面倒くさいしー。双子説はお前を知っている人間には通じないんだろう? オレは詠の身代わりはしないぞ? 神社の仕事なんて億劫だからなー」 のんびりとした口調に、月詠は眉間に皺をよせた。 「そんなことさせん」 「お前が人界での居場所を作ってなけりゃ、それも面白そうだけれどな。だが――」 この方が色々と小回りが利くからな、と月影が呟いた。 ◇ ◇ ◇ ねー『天の盃』って知ってる? えーっと……どの? おまじないの? 都市伝説。 知ってるー。 なーんだ。知ってたのかぁ。 最近の話じゃ有名じゃない? 月に化けてる妖怪のやつ。おまじないした人を食べちゃうんでしょ。 ……えっ。 え、って……なに? 私が聞いたのと違う。私が聞いたのは『森の奥に潜んでいる血を好む木の化け物は、新月と満月の夜に動物をおびき寄せて血を啜っている。やがて長い年月が過ぎて知能を持ったその化け物は、自ら移動することを覚えて、今度は人里に近づいて人間の血を啜るようになった』って。 それ誰に聞いたの? 中学の友達。このあいだ久しぶりに会ったんだ。 ふーん。話す人によって内容が変わってるのかな。噂話は尾ひれがつくって言うし。……ねぇ、その話、なんで『天の盃』って名前なの? その内容だと、単に吸血の木、とかって名前でもいいと思うけど。 それはねー。化け物は薄い膜でできた球体の中に血をためてて、それをこう……枝で持って空に掲げるんだって。遠くから見ると、丸いワイングラス持ってるみたいじゃない? あぁ、なるほど。獲物を獲ったから祝杯をあげるって感じかな。……空に血の入ったグラスを掲げるのか……なんかそれ、真っ赤な月にも見えそうだね。それ見た人が、今度は『赤い月が出てるから天の祟りだーっ!』なんて騒ぎそう。 あははっ。ありそうありそう! いつもと違う物が現れるって怖い話の定番だもんね。月だったら、やっぱり魔女か吸血鬼のイメージだなぁ。赤い月なら血も連想するしねー。『血を思わせる赤い月の夜には魔女が儀式を行い、それを偶然見てしまった者には死が訪れる』……なんてね。 |