蜜色の髪が涼やかな風を受けて煌いた。 「寒くないですか?」 そう言って北風から守るように横に立つラインヴァルトに目だけで返事をして、エリザベートは目前に広がる街並みを眺めた。 東の空には未だ目の覚めるような青色が広がっているが、反対側の空に浮かぶ雲は黄金に染まっている。 昼間は比較的暖かく、人もそれなりにいたのだろうが、さすがに夕方ともなると人気がまばらになってきた。街灯はあるが、日が暮れた公園にいつまでもいる物好きは少ない。 楽しげな子供の声が聞こえてくると、エリザベートは目元を和ませた。 ふたりのいるこの場所は、数十年前に設備された空輪山である。春になると敷地内に植えられた桜が咲きほこり一面桜色に染まることから、別名桃のお山≠ニ呼ばれている小山の公園だ。 宿泊先のホテルで「街全体を見渡せる場所はないか。できれば、自然の多いところがいいのだが」と訊ねたところ、しばし考えた従業員に教えられた。高度はないが望みの場所であろうと。 エリザベートは先程から喋らない。彼女が何をしているのかわかるから、ラインヴァルトは邪魔にならぬよう自身も黙して佇んでいる。とはいえ、いつでも動けるよう常に周囲に意識を向けている。 「――ほら、帰るぞ」 背後から聞こえてきた男の声に、ラインヴァルトはさり気なく彼女に近づく。 「まだいいじゃん」 「時間はいいけど、場所変えよう。この辺、夜は人いないし……」 「なに、あんた怖いの?」 「ばーか。ちげーよ。……例の吸血騒動、この街だって聞いて。ただの通り魔だって言ってる奴もいるけど、あれ、黒魔術だって話じゃん。血を集めてるとかって……」 空から視線を逸らさないまま、エリザベートは口元を僅かに緩めた。 「……やっぱ怖いんじゃない。そんな根も葉もない噂話なんか信じちゃってさぁ。魔女なんているわけないよー。噂話が膨らんじゃっただけだよ」 若い男女は肩を寄せて仲睦まじく話しながら通り過ぎて行った。 ふたりの他に人はいないようだ。 人の気配がなくなると、公園内は独特の雰囲気で満たされた。物悲しさは一切なく、どちらかというと厳かであり壮麗であり――自然の息吹が濃く感じられる空間となった。 ゆっくりと、伏せていた目を開けたエリザベートは、懐から取り出した小さな水晶の塊を指で弾いて空へ飛ばした。 水晶が視界から消える寸前、エリザベートはぱちん、と指を鳴らす。 西日を受けて光り輝く水晶から何かが生えた。 鳥の翼だ。 下に落ちかけたそれは、重力に逆らって上昇してゆく。淡い光を放ちながら、瞬く間に姿を変えた。少し丸みを帯びた形とは違い、その目は鋭い眼光を宿している。 大きな目を動かして、水晶でできたフクロウは、エリザベートの頭上を一度旋回すると、繁華街へと飛んでいった。 「何か発見できるといいのだけれど」 などと嘯くが口元には笑みを刷いている。 すでに確信しているのだろう。探し物が何であるのか。どこにいるのか。エリザベートには余裕がうかがえる。 彼女の呟きに、ラインヴァルトは意識を集中する。今いる場所から徐々に範囲を広げ、異形の気配を探る。 ラインヴァルトの指がぴくりと動いた。肉眼では確認できない。どこかに潜んでいる鋭い妖気に目を細めた。 今度は彼にも感じ取ることができた。あの日、空港でエリザベートが言っていたヴァンピーアはこの近くにいる。 「……闇、が蠢いていますね」 その言葉にエリザベートが頷く。 「見つかったら、どうしますか?」 「そうねぇ……」 ふぅっと息を吐いて、エリザベートは困ったように小首をかしげた。 「さっきの、話……」 唐突に話題を変えられてラインヴァルトは怪訝そうに相手を見やった。 「話……? 魔女がどう、という話ですか?」 言葉を引き取り、眉をひそめたラインヴァルトが訊ねる。 「えぇ。どこの国でも同じような伝承があるのね」 「万国共通でしょう、異形が人間を襲うのは。理由も似かよるものです」 そうねと返してエリザベートは遠くを見つめた。 異形の気配がヴァンピーアならば自分の専門分野だ。間違いがなければ、異形の種類は古に根絶えたはずのモノ。発見したら即座に処理しなければならない。 とはいえ、この国の術者の存在を無視もできない。いくらこちらに悪意がないとしても、縄張りを荒らすような行為は極力避けるべきだろう。 それよりなにより大事なのは――休暇でこの地に滞在している、ということだ。 せっかくの休みをむざむざ潰すこともない。 「あなたが直接手を下す必要はないと思いますが、エリーザの決定に従います」 「そうね……?」 視線を感じて肩越しに背後に目をやると、木の影で霊気が陽炎のように揺らめいていた。 エリザベートがさり気なく身体を斜めにして観察すると、白い衣を身に着けた赤い目の子供がふたり顔を出した。気づかれないと思っているのか油断しているのか、気配を消すこともなく、彼女たちの様子をうかがっている。 エリザベートはフクロウが飛んで行ったであろう方向を見つめて、しばし黙考する。 水晶のフクロウはもう姿が見えない。 ややあって、ふぅ、とため息をひとつ吐いた。 「……八百万の神がいる、と言うだけあってここの守りは心配ないでしょうしね。あの子が帰ってきたらもう一度考えましょう」 言って、くるりと後ろを向く。慌てて頭を引っこめる子供の姿に、エリザベートは薄く笑んだ。 高層から見下ろすと街が宝石箱のようだ、とはよく言ったものだ。 エリザベートは窓から見える景色に目を細めると、心の中で呟いた。 明るくなり過ぎた現代の夜は、空から星を消した代わりに地上に巨大なプラネタリウムを出現させた。ホテルから少し離れた大通りには自動車のライトが行き交い、まるで緩やかに流れる帚星のようだ。本物に劣るとはいえ、人工的な美しさも悪くはない。 口元に笑みを履いたエリザベートは、気配を感じて後方に視線を投げる。 シャワールームから出てきたラインヴァルトに極上の笑みを向けた。 「ワイン開けてくれる?」 当然のように命令をして、彼女は室内に備えられたソファに座る。目の前のテーブルには程よく冷やされた赤ワインと柄の長いグラスが設置されている。 「ルームサービスでも頼みましょうか?」 ラインヴァルトの問いかけに、エリザベートは首を横に振った。 「いらないわ」 水分を含んだ金の髪が軽やかに揺れた。ホテルの薄明かりの中でもその輝きは失われない。寧ろ彼女は夜にこそ映える。 ラインヴァルトは彼女をやや眩しげに見つめると、笑みを浮かべてワインボトルを手に取る。手際よくコルクスクリューを差しこみ、ゆっくりと抜いた。 音のない部屋にワインを開ける音が響く。 「ありがとう」 順応な従者が向かいに腰掛けるのを待って、エリザベートはグラスに口をつけた。芳醇な香りがふわりと鼻をくすぐり、自然と口元に笑みが零れる。 追われることのないゆったりとした時間を楽しもうとしてソファに身を沈める。そうしてエリザベートは目を瞑る――が、すぐに開いた。 鳥の羽音に気づき、ついと視線を窓へと移した。つられてラインヴァルトもそちらを向く。 窓の外で何かが旋回している。半透明の塊が、半透明の翼を広げて飛んでいるのを目に留めて、正体に気づいたラインヴァルトが近づいた。 塊は一度大きく旋回すると、ふたりが寛ぐ部屋の窓へと突っこんだ。 ホテルの窓は防音と安全を兼ねてかなり厚いガラスが使われている。それを難なくすり抜けて、塊がラインヴァルトの差し出した右の手首に降り立つ。羽をたたむ塊は、ひとりでに発光すると動かなくなる。 腕から転がり落ちる寸前に掬い上げ、ラインヴァルトはそれをエリザベートに手渡した。 「お帰りなさい。私の可愛い子」 言って、エリザベートは軽く口づけた。 半透明のそれは、上質の水晶でできたフクロウだ。 飛びこんできた窓は割れていない。ヒビすらも見受けられない。水晶にも目立った外傷はないようだ。 エリザベートの命を受けて一仕事終えてきたフクロウは、彼女に伝えたいことがあるらしく、数回その身を光らせた。 「例のヴァンピーアですか?」 ラインヴァルトが訊ねながら立ち上がり、カーテンをひいた。ここは高層のため外から覗かれることはないが念には念をいれての行動だ。 「ええ。気配を隠していないから、簡単に見つかったわね」 人に見つかるのを良しとしない異形が多い中、非常に珍しい。古の時代ならばともかく、大抵は消されることを恐れて慎重に行動しているのだ。 使い魔である水晶のフクロウを細い指で持ち直し、エリザベートは無機質な目を覗きこんだ。 「さぁ……あなたがその目で見てきたものを私に教えて」 瞬間、フクロウから白い光が満ち溢れた。視界が水の中にいるように朧げになるが、ふたりはまったく動じていない。 複数の光の玉が部屋中をゆったりと流れてゆく。力ある者が見たならば、空気の玉に似たこれが、自然界に存在する生気の塊だと気づき驚いただろう。普段は目に見えぬはずのモノを指摘する第三者は、今ここにはいない。 辺りに広がっていた光はやがて一点を指すように絞られた。そしてそれは一直線にエリザベートの額に向かっている。 順応な使い魔は、己がその目で得たものを正確に主人に伝える。 エリザベートの虚ろな瞳にはフクロウの姿しか映っていない。脳裏に直接送りこまれる情報に口元を歪める。 一通り視たエリザベートは、一息つくと右手の指をパチンと鳴らした。 彼女の両手で抱えるほどだった水晶のフクロウが、見る間に萎んでゆく。今はエリザベートの手にすっぽりと収まるほどの大きさしかない。 もう一度指を鳴らすと、今度は大気に溶けこむように消え去った。 「何かわかりましたか?」 ラインヴァルトがそう聞くが、エリザベートは口を噤んだまま動かない。目を閉ざして眠っているかのようだ。 「また、思い出しちゃった」 細長い指で前髪をかきあげてぽつりと呟く。 使い魔はとある場所の変事を見せた。何か異質な出来事があった場所に強く残る心情を探し出し、その様子を今見てきたかのように主に伝えた。 道端に倒れた少女から流れる赤い血。それが、彼女の記憶を呼び覚ました。 血まみれの屍となった幼子の姿。 脳裏に焼きついたまま、ずっと忘れられないでいる。死の臭いを感じたとき、ふとしたはずみに、あの光景が胸をかすめる。今見た光景はまったく関係ないというのにだ。 「もっとも死に近い存在なのに……情けない」 人ひとり死なせたくらいで何を怯えているのか。闇夜に生きる自分が何を悩んでいるのか――。 自嘲ぎみに笑うエリザベートを、ラインヴァルトが痛ましげに見つめる。 「仕方がなかったのでしょう? 贄として捧げられた命は、贄の意思で覆せない。悪魔が情けをかけても結果は同じだ。一度決まった運命は変えられないのだから」 「……そう、ね」 幾分かきつい言葉に怒る様子もなく、エリザベートは息を吐いた。 そうして彼女は長年心に巣くっている闇を思い出す。 気紛れに屋敷近くの森を散策していたエリザベートは、小さな悲鳴に立ち止まった。声のした方を見やると、ひとりの男が慌てた様子で逃げてゆくところだった。 人間は近寄れぬよう、辺りに術をかけてあるのに……。しかも、侵入者の気配も感じなかった。 内心しまったと呟いたエリザベートは、すぐに思い直す。 恐らくあの男は狩りにでも来て道に迷ったのだろう。命の危険に晒されて、隠れていた潜在能力が現れることはよくある。第六感で安全な場所を見つけ、外敵を阻むこの結界内に難なく入りこんだのかもしれない。そうでなければ、危険の多い森の奥までやってくるはずがない。この辺りに住む野生動物は凶暴なのだ。それは長年の経験から人間たちもよく知っているだろう。 何にせよ、大騒ぎするほどのことではない。あの男が噂は本当だと村人に伝えてくれるに違いない。森には魔女が住んでいるから近づくな、と。 エリザベートは念のためと神経を研ぎ澄まし、他に異変がないか確認する。 結界の綻びは感じられなかった。先ほどの男も無事に結界外へ出たようだ。 その後はわからない。異質な気を放つ異形ならばいくらでも気配を追えるが、相手がただの人間では無理だ。自身の結界内であればともかく。 ため息をひとつつき、彼女は散策を楽しんだのだった。 エリザベートが自身の間違いに気づいたのは、それから二日後であった。 仕事を済ませて屋敷に戻る途中だったエリザベートは、ゆっくりと失速した馬車に眉をひそめた。 やがて馬車は静かに止まった。 どうしたのかと訊ねると、御者が困ったような声をあげた。小さな子供がいます、と。 森の奥に子供がいるはずがない。しかし、御者が嘘をつくとも思えない。 エリザベートは不信感を抱きながら馬車を降りた。 結界の狭間に女の子供がいた。不思議そうな顔をしてエリザベートを見つめている。 「あなたひとり? どうしてここにいるの?」 エリザベートの問いには答えず、少女は首をかしげた。 「どうやって来たの?」 今一度、優しく話しかける。 一番近くの村でも距離がある。少女の足では到底無理だ。誰かが連れてきたとしか考えられない。 しばらく待っても、少女は何も答えなかった。 ――そういえば、この子は先ほどから音を発していない。言語障害があったとしても、意思を伝えるために唸り声くらいはあげるはずだ。 エリザベートが訝しげにしていると、少女が小走りで彼女に近づき、ニコッと笑った。 不意をつかれて肩を揺らす。 曇りのない瞳に見上げられ、エリザベートはうろたえた。これほどまでに無垢な魂は初めてだった。 「いらっしゃい。村へ送ってあげる」 そう言って差し出した手を、少女は何の疑いもなく握り返す。 指に伝わってくる温かさにエリザベートは微笑んだ。 少女を村へ送って、それで終わるはずだった。 一連の出来事から数日後、エリザベートは深い森の奥で瞠目した。身じろぎもせず、ただ一点を凝視する。 やがて目をすっ……と細めた。 屋敷には行けぬよう、結界を張り巡らせた境目。そこに、粗末な木で作られた祭壇が設置されていた。慌てていたのか、今にも壊れそうなほど粗雑な作りだ。 祭壇はひどく汚れていた。そこに、ひとりの少女が横たわっている。 少女の服は先日会ったときとは違い、聖者が身に着けているような清廉な衣服だった。元は純白であったのだろう。だが、赤黒い染みが全体に広がっていた。 真っ黒にも見える赤い液体が、ぽたりぽたりと少しずつ地面に落ちている。錆びた鉄の臭いが鼻につき、血が流れているのか、とやけに冷静に思う。 ――人間は、時に異形よりも厄介な存在だ。 エリザベートは瞬きも忘れて祭壇を見つめた。 ああ、そうか。この子は贄だったのだ。森の奥に住む異形が、本能の赴くままに近くの村を襲わないように。……そんなこと、私はしないのに。 捧げられた生贄が逃げることは許されない。そのために屠る行為はよくある。 「なんて、脆い……」 やっとの思いで掠れた声を出す。 人間は脆い。簡単に命が消える。それ以上に心が脆い。 エリザベートは少女にそっと手を伸ばした。 ひやりとした感触が、少女がすでにこの世にいないことを伝えてくる。 「……」 彼女の瞳に剣呑な光が宿る――が、すぐに消えた。 「埋葬しなきゃ」 呟いて、血に汚れた少女の髪を優しく撫でる。 一年中花が咲き誇るような、綺麗な綺麗な場所がいい。 直接手を下したわけではない。ただの自己満足でしかない。 でもそれが、自分にできるせめてもの償いだ。 横たわる少女を難なく抱き上げて、エリザベートは結界の中へと姿を消した。 ワインの入ったグラスを室内灯に透かすように掲げる。輝く赤い色は、摂取したばかりの生贄の血を思わせた。 盃に注がれた血のような――。 エリザベートは僅かに眉をひそめると、グラスを持ったまま立ち上がった。 「エリーザ? どうしましたか」 急に立ち上がった彼女にラインヴァルトは怪訝そうな顔をする。 問いかけには答えずにエリザベートはカーテンを少し開けて窓の外を見た。 目に見える異変は感じられない。しかし闇に身を潜める生き物は確実にこの街に存在する。 「この国の魔術師に任せようかと思ったけれど……介入しようかしら。ゆっくりのんびりもいいのだけれど」 休暇で来たのだから、わざわざ手を下す道理はない。放っておいても近い内に始末されるだろう。相手はとても弱い。 だが――狩りの血が騒いでしまった。 エリザベートは右手を目の高さまで持ち上げ、ワイン越しに外を見た。 街が血の海に沈んでいる。 「では、この後の予定を変更しなければなりませんね」 頭の中でスケジュールを組み直しているのか、ラインヴァルトは考えるような仕草をする。 「悪いわね」 「ご主人様の気まぐれにはなれていますから」 しれっとした物言いが気に入らなかったのか、エリザベートが僅かに口を尖らせた。後ろを振り返ると、彼女の予想通りの笑顔がそこにあった。 「生意気ね。誰に似たのかしら」 エリザベートの顔には咎めの色は見受けられない。口元に柔和な笑みを履いてラインヴァルトを見つめ返す。 「さて……あなたの屋敷へ伺ってからは、主から手取り足取り指導を受けましたから……我が主に似たのでしょうね」 「そう。じゃあ仕方ないわ」 ゆっくりとした動作で立ち上がり、ラインヴァルトは親愛なる主の前へと移動した。主を見下ろす形で直視する。 静寂の中で互いの視線が絡みあう。 ラインヴァルトは黙ったまま見上げてくるエリザベートを引き寄せてその腕に抱えこみ、柔らかい唇に自身のそれを重ねる。そのまま彼女の肩に顔を埋めた。 ――あれは遥か彼方の出来事。あれから幾星霜もの時間が過ぎた。人間ならばとうに寿命を終えている。 不意に、出会った頃のラインヴァルトを思い出したエリザベートは小さく声を洩らした。 子供だった彼はいつの間にか自分と肩を並べるようになった――。 「何がおかしいのです?」 少し拗ねたような口調のラインヴァルトに破顔する。 こうして甘えられるのは嫌いではない。 エリザベートは彼の背に手を伸ばして自ら抱き寄せた。 |