たいじや -天の盃- 幕間−1
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 人間が足を踏み入れることのない深い森の奥で、エリザベートはひっそりと生まれ、ひっそりと暮らしていた。

 ベッドに横たわっているエリザベートの指が緩く握られシーツに皺をよせた。
 目が覚めた彼女は、まず瞳だけを動かして部屋を見回した。
 豪華ではないが品の良い家具が並んでいる。埃ひとつなく、常に掃除が行き届いていることが見てとれた。
 だが、生命の気配は感じられない。その理由は誰かに聞かずともわかっている。
 エリザベートは緩慢な動作で起きあがると、腰掛けたまま伸びをする。窓から差し込む陽の光を反射して、蜜色の髪が揺れた。
 頭がぼんやりとしている。脳に薄い紗幕がかかっているようだ。
 瞑想をするかのように目を閉じて、エリザベートはしばしその状態で考える。
 いささかあやふやな脳内の情報を整理してから立ち上がった。
 薄手の夜着のまま歩みを進める。まだ本調子ではないから慎重に。
 案内はなくても難なく屋敷の外へ出たエリザベートは、爽やかな風を受けて目を閉じた。
 自然の息吹きを、生命力を感じて、ほぅ……と息を吐く。
 人の手が加えられていない森林は特に密度の濃い生気を得られる。住居はこのように不便なところではなく、もっと容易に移動できる場所を選ぶべきなのだろうが、その不便さがこの身を隠すにはもってこいなのだ。
 鬱蒼と生い茂った枝葉は日光を遮り、昼間でも薄暗い。人間が森の中を目印もなく歩くことは難しいだろう。運が良ければ森を抜けられるが、大半は彷徨い続けた挙句に野生動物の餌食となるか、そのまま行き倒れだ。だから人々は必要がなければ森へ行かなかった。豊かな果実を実らせる木々は森の浅い所にもあり、奥まで進まずとも十分であったから。
 森の奥には、今では誰が建てたのか不明な屋敷がある。そこには不老不死の吸血鬼が棲んでいると言われており、近辺に住んでいる民は、最奥には決して近づかなかったという。吸血鬼の怒りを買わなければ何も問題はないとも伝えられていたからである。
「吸血鬼、か……」
 どこか自嘲めいた笑みを浮かべて彼女は呟いた。
 ある意味で同種と見られるのは致し方ない。人間ではないのだから。
 普段は緩やかに流れている自然の気の流れ――気脈は時折澱む。個々の差はあれど、生きとし生けるものが持つ心の歪みは周囲に影響を及ぼす。生死の混在する人里は特に、ほんの些細ないざこざから、人々を脅かす闇が生まれてしまう。
 放っておけば世の均衡が崩れるだろう。だが、その歪みを正すために、自浄作用というものが存在する。
 主に水や大気の汚濁を取り除く自然の働きを指すのだが、この場合は怒り、妬み、悲しみなどといった負の感情が滞るのを防ぐ力のことになる。そして、負から生まれた魔物を屠る力でもある。
 力≠ヘ人間そっくりな姿に具現化されて、必要があれば歪みを正すためにその地へ赴き、いびつな闇を分解する。
 人ではない闇の分解者≠ヘ容姿だけではなく、肉体構造も人間と酷似している。傷を負えば真っ赤な血が流れ、致死に至れば死亡する。
 相違点をあげると、少しの負傷ならば瞬時に治ってしまうし、なにより寿命が長い。優に千年は越えるであろう。精神が衰退しない限りはいくらでも生き続ける。
 一見不老長寿に思える彼女は、だがそうであると断言できず、役目を終えて代替わりするときには、身体は塵と化し跡形もなくなってしまう。そうすると、均衡が崩れないように新たな分解者が生まれる。それは古代から一度も途切れることなく綿々と続いていた。
「――――」
 エリザベートの眉が僅かに顰められる。
 輪廻転生というものが当てはまるのだろうか。自分たちがどのような扱いをされてきたのか、これからどう思われるのか嫌でもわかる。
 強く手を握り締めて、心に燻る感情を鎮める。
 人々は人の形をした自浄作用≠フことを、怪異から人間を守る天の使い≠ニして崇め奉ることもあったであろう。しかしいつの頃からか異形≠ナあると恐れた。
 人間を脅かすモノたちを退治する術者であっても、時に異質な存在として扱われてしまう。相手が神でも悪魔でも関係ないのだ。魔の性質を持つモノは、人間から見ればひとくくりに魔物と呼ばれる。
 とはいうものの、魔物と呼ばれるのは苦々しく感じる。
 エリザベートは考えを振り払うように頭を振った。
 思うことは多々あれど、異形祓いの役目を負ってこの世に生まれた使命は果たさねばならない。
 金色の髪が風を受けて軽やかに揺れた。形の良い唇が何かの言葉を紡ぐが音は発されない。続いて、右の親指に牙をたてて傷をつける。
 血がぷっくりと盛り上がり、指を伝って流れた。
 傷口から少しずつ流れる血は赤い絹糸のようになり、空中でその身をくねらせる。やがて複雑な文様と、それを囲む丸い円を描き始めた。
 エリザベートの血で描いた魔法陣だ。
 彼女と向き合う格好で形成された魔法陣が金色を帯びた赤い光を放った。
 辺りに風が巻き起こりエリザベートの髪をはためかせた。乱れる髪を押さえることなく、彼女はただ黙って待つ。
 木々の梢を揺らしながら何かが近づいてくる。
 その気配はひとつではない。また、人間の持ちえるものではない。
 エリザベートに惹かれ集ったモノたちが彼女の前に姿を現した。
 全部で五体。
 彼らの容姿は、外見が人間に近いもの、動物の姿のもの、妖魔に見えるもの――実に様々である。
 森羅万象の素となる気≠ェ具現化された、心霊的存在。それがエリザベートが使役しようとしているモノの正体だ。幸いなことに森の奥には核となる自然界の生気が満ち溢れていた。
 集まった顔ぶれを見回してエリザベートは目を細めた。
 協力を得られるのは非常に嬉しい。
 未だ血が止まらない右手を魔法陣にかざして、人間には正しく発することが難しい言葉を紡いでゆく。
 一体ずつ魔法陣を潜り、エリザベートから一滴の血を与えられて主従の契約を成す。
 主との血の契約。その様子を偶然目撃してしまった者は、魔族の首領が自らの使い魔を増やしているように見えたのかもしれない。
 こうして、この地に吸血鬼の伝承が誕生したのであろう。

 さて、そんな因縁を持った彼女が生まれてから数百年が経過した。
 契約をした彼らはエリザベートから受けた命を忠実にこなす他、彼女の身の回りの世話もしていた。やがてエリザベートが役目を終えたときに契約は解かれ、自然へと還ってゆく。
 時が流れ時代が変わってくると、彼女を取り巻く環境も変化した。

「森の奥に棲む化け物が怪異を祓う」

 ――と耳にした貴族が、密かに異形祓いを依頼してくることも少なくはなかった。
 私利私欲の依頼でなければ断る理由はない。役目をこなすため時には人間と交流を深める機会も必要だからだ。その方が小さな情報が入りやすいし、通貨を手にするにはもってこいだった。
 だが、基本の生活は変わらない。普段は森から出ずに、エリザベートは使い魔たちと共にひっそりと暮らしていた。
 ある日エリザベートがいつものように屋敷で寛いでいると、従者のひとりが部屋を訪れた。
 困っているらしく、少し白髪の混じる眉を下げて彼女に告げた。
 人間の子供がここへ紛れこんでしまった、と。
 エリザベートは軽く眉をひそめた。連れてくるように命じると、小さくため息をつく。
 何人たりとも屋敷はおろか周辺には近づけぬよう結界が張り巡らせてある。手練の術者ならばともかく、ただの人間では決して破れない。
 それなのに、この少年はいとも簡単にやってきた。人間が森の奥へ現れたのは、自分が知る限りこれで三度目だ。
 一度目は偶然迷いこんでしまった男。二度目は吸血鬼じぶんの生贄とされてしまった少女。
 心臓が痛みを訴えた気がして、エリザベートは硬く目を閉じた。
 しばらくして、迷い人だという少年が彼女の前に姿を見せた。
 ――疲れているのかしら。年は取るものじゃないわ。
 心に浮かぶ感情をかき消すように、わざと呟くと、エリザベートは優しく問いかけた。
「坊や。ここへ何をしに来たのかしら」
「……あなたが、森の主様?」
「そう……ね。そうとも呼ばれているわ」
 他にも、魔女、吸血鬼、血塗られた貴人、闇の支配者など――実に様々な呼ばれ方をしているの。面白いでしょう?
 冗談めいた口調で言うが、少年が反応することはなかった。
 少年は何とも言い難い表情をしていた。強いて言えば、無表情。愛想笑いもせず、魔物を目の前にして命乞いもせず……。瞳の奥が冷めきっている。
 エリザベートは眉間に皺をよせた。
 子供特有の生気が感じられない。頬にうっすらと残る青あざは虐待の跡だろうか。それに、袖から覗く手首の細さが気になる。
 考えても埒が明かない。エリザベートはもう一度先ほどの質問を口にした。
「坊やは何をしにきたの? 見たところ、狩りで迷いこんだ様子はないけれど」
 少年は着の身着のままできたらしく何も持っていなかった。
 狩猟目的で森へ入ったのならば、弓矢なり籠なりを身に着けているはずだ。
 少年はエリザベートの目を真っ直ぐ見つめて答えた。
「生贄に。村長の息子が、森の主様を見た、姿を見せたってことは生贄が必要なのだって大騒ぎして。主様の怒りを静めるために僕が選ばれました」
 一瞬、少年の言葉が理解できず息を呑んだ。
「……そう……」
 三度どころではなく四度目であったらしい。一体、いつ姿を見られていたのか……。それよりもなぜ気づけなかったのか。
 彼女は記憶を辿り唇を噛んだ。思い当たるのは、ついこの間の異形祓いだ。珍しく手こずり心身共に酷く疲れたのだ。
「……嫌ね。本当に老いぼれたのかも」
 額に手を当てて自嘲気味に呟く。
 そんな彼女を見て、少年が不思議そうな顔をする。年齢を感じさせない彼女の容姿では説得力がないのだろう。
 こほんと咳払いをひとつしてからエリザベートは真面目な顔をした。
「わたしは人間ではないけれど、生贄は必要ないわ。だからあなたを村へ帰してもいいのだけれど……それでは問題が生じそうだから」
 脳裏に血塗れの祭壇が浮かんだ。
 二度とあのような想いを味わいたくはない。
 少年に感情を悟られないように笑みを絶やさず続ける。
「知り合いの人間に頼んでもいいし、ここで暮らしてもいい。あなたの望むままに」
「じゃあ、ここに置いてください。一通りの仕事はできます」
 少年の即答を聞いて目を見開いた。
 村人たちが言う噂話を耳にしているだろう。なのに、死に近いこの場所に好き好んで残ろうとするなど正気の沙汰ではない。
 真意をはかりかねたエリザベートが返答に窮していると、少年は初めて反応を見せた。笑おうとしているのか、引き締めていた唇を微かに緩めた。
「知らないところへは行きたくない。村に近いここへ置いてください」
「わかったわ。――シルフ」
 エリザベートの声にひとりの男がやってきた。少年を連れてきた彼女の従者だ。
 彼は視線を横に流して一瞬少年を見やり、それから正面を向いた。
「この子に湯浴みと着替えの準備をお願い」
 丁度良い大きさの服はないが、少年が今着ている物よりはずっといいだろう。
 主の命にシルフと呼ばれた初老の男が恭しく頭を下げた。
 少年の服はところどころ破けたり泥で汚れている。預かると決めたからにはそれなりの格好はさせたい。エリザベートには彼を奴隷のように扱う気はないのだ。
「坊や名前は?」
 少年はほんの少し痛ましげに目を細めて、だが抑揚のない声で答えた。
「そんなのない。僕に用があるときは、おい、とかお前って呼ばれていたから」
「……両親は?」
 少年が首を横に振った。
「僕が小さい頃に亡くなったと。よくは知らないけど僕は罪人の子だから、村長の家に預けられて、監視する、って」
 それで奴隷のように扱われていたのか。罪人などと言っても本当のことなのかわからない。
 合点がいって見知らぬ人間に怒りを覚えた。エリザベートは心に湧き上がる怒りを鎮めるように自身の肌に爪を立てる。
「では、まず名前をつけなくっちゃね」
 口調はできるだけ平然を装って言った。
「そうね……。ラインヴァルト、はどうかしら。強い支配者と言う意味よ」
「強い、支配者?」
 オウム返しに答える少年にエリザベートは笑顔を返す。
「あなたの人生はあなたのもの。誰も干渉できない。わたしも、指導はしても支配する気はないわ。いつかここを去るときに、ひとりでも大丈夫なように。もう誰にも束縛されないように願いをこめて。…………嫌かしら?」
 言って、更に笑顔を深めて少年を見つめる。
 ラインヴァルトと名づけられた少年は、相変わらず無表情であった。しばし考えるような仕草をしてから首を横に振る。
「それでいいです。僕が呼ばれていることがわかれば、何でも」
 やはり声に抑揚はなかった。
 整った眉を歪ませる新しい主人に、ラインヴァルトは怪訝な表情を浮かべた。



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