たいじや -天の盃- 幕間−2
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 扉を叩く音にエリザベートは目を落としていた書類から視線を上げた。
「どうぞ」
 ゆっくりと扉が開いた。
「エリザベート様、お手紙です」
 顔を出したのはラインヴァルトだった。
 足音を立てずにエリザベートの元へと歩いてゆき手紙を差し出した。
 そのとき年相応のふっくらとした手首が目に入り、エリザベートは自然と笑みを零す。
「……どうかしましたか?」
 首をかしげるラインヴァルトに「なんでもない」と微笑みかけて、エリザベートは手紙を受け取る。
「ここには慣れた?」
 問いかけると彼は頷いて答える。
「はい。シルフさんも、最初は怖い方かと思いましたけれど、丁寧に教えてくれますし」
 シルフはエリザベートと契約をした使い魔のひとりである。彼は特に何も指示しなくても淡々と確実に仕事をこなす。
 以前から何度かこういった経験があるのだろうとエリザベートは結論づけた。
 術者の呼びかけに応え易い、あるいは応えてくれない、という違いは必ずある。
 心霊的存在。言い換えれば精霊とも呼ばれる彼らは、こちらに好意を寄せてくれるなら心強い存在だ。逆に敵意を持たれると非常に厄介である。
 もう一度目元を和ませてからエリザベートは蝋封された封筒を丁寧に開けて内容に目を通す。
 途端に彼女の顔から笑みが消えた。
「お仕事の依頼ですか?」
 その手紙を読み終わる頃を見計らってラインヴァルトが声をかけた。
「ええ。街中で血を吸われる事件が発生しているんですって」
「吸血の種族、ですか?」
 ラインヴァルトは興味津々といった表情を浮かべた。
 そんな彼の問いかけに肯定するように頷く。
「ええ、そうね……」
 呟いて、エリザベートは手紙の続きに目を通す。その内容に柳眉が逆立った。
 化け物の姿は一部しか目撃されていないという。細長い部分を器用に動かして獲物を捕らえているようだ。
 想像するに、異形の正体は――。
「……妖樹? でもあれはとうの昔に絶滅したはず……」
 自分の祖先とも言える存在が消したはずだった。
「エリザベート様?」
 怪訝そうな声には返答せず、エリザベートは手紙を凝視している。怒っているのか、何とも言えない表情だ。
「紅茶でもお持ちしましょうか?」
 我に返って目線を上げると、心配そうに見下ろす瞳と目が合った。
 エリザベートは僅かに目を伏せて息を吐いてから、もう一度目の前の少年を見つめた。
「大丈夫よありがとう」
 心から感謝の言葉を告げて笑みを浮かべると、ラインヴァルトはほんの少し表情を緩めた。
「それってどんな化け物なんですか?」
「……それ?」
 反射的に疑問を返したが、手紙の内容を指しているのだと気づく。
 興味を覚えているのだろう。ラインヴァルトが瞳を輝かせている。
「ええとね」
 エリザベートは無邪気な様子に苦笑しながらも口を開いた。
「直接見ていないから想像でしかないけれど、たぶん、妖樹」
「ようじゅ、ですか?」
 疑問符が浮かんでいるらしい少年に頷く。
 できるだけわかりやすい言葉を選びながらエリザベートが説明する。
「普段使わない言葉だからわかりづらいでしょうね。自らの意思で動くことのできる、樹の姿をした化け物よ。吸血樹、と言えばわかりやすいかしら」
 動かなければ、ただの植物と見紛うだろう。そうして、油断した獲物を相手に悟られずに狩るのだ。鳥ならば枝に止まったところを。人間ならば木陰で休もうとしたところを。
 文献にはこうも記されていた。
 本来は森の奥で育ち、近づいてきた野生動物の血を採っていた。
 その寿命は二ヶ月ほどと短いが、一切の活動を止めて眠りにつけば、十年以上にもなる。
 最も活発になるのは、記録によれば満月と新月の夜。花を咲かせ花粉を撒き散らし、獲物に幻覚を見せる。獲物の視界を奪い、己のいる方へ誘い込む。
「吸血樹はそうして集めた血を薄い膜の中に溜めて、空に掲げるそうよ」
 枝で赤い液体を掲げる様は、勝利の美酒を楽しんでいるようにも見えた。その様子を目撃した人間が模倣した事件もあった。
 吸血樹自体はとても弱いが、場合によってはとても厄介な存在になる。
「樹の化け物というよりも樹に擬態した異形≠ニ呼んだ方がいいかもしれない。わたしが生れ落ちるずっと前に根絶えたはずなんだけれどね」
 どこかに残っていたモノが繁殖したのかもしれないし、誰かが育てたのかもしれない。
 理由は正直どちらでもいいとエリザベートは思う。
 自身に課せられた使命は化け物退治であり、異形の生態を調べる研究者ではないのだから。
「しばらく屋敷を空けるから、あとはお願いね」
 エリザベートが告げると、
「……はい」
 なんとも歯切れの悪い返答であった。
 理由がわからずエリザベートは眉をひそめる。
「なあに? 気になるから言って頂戴」
 尚も言いよどむラインヴァルトに再度促すと、彼は緊張した面持ちで口を開いた。
「僕も、連れて行ってください」
 思いもよらなかった言葉にエリザベートは呆気に取られた。
「街へ行きたいのなら、別の日に連れて行ってあげる。……珍しいことを言うのね。今までお願いなんて一度もしなかったのに」
 彼女の驚いた表情にラインヴァルトは少年らしい悪戯じみた笑みを浮かべた。
「遊びはまたいずれ。……そうではなくて、仕事のお手伝いがしたくて」
「子供が何を言っているの。わたしが相手をするのは妖魔と呼ばれる怪物の類なのよ。弱い人間ごときが対抗できるわけがないでしょう」
 エリザベートは鼻でせせら笑った。わざと煽るようにしたものの、ラインヴァルトは動じていない。
 頬杖をつき、ふうっと息を吐く。
 人間との交渉に、人間を使うことを考えなかった訳ではない。同種同士で話をした方が潤滑に事が進む可能性が高い。街に拠点を設けるのもいいだろう。
 だが、彼はまだ子供だ。巻き込むには経験がなく早すぎる。
「たとえ子供でも関係ない。エリザベート様と契約を交わせばいいのでしょう? 痛っ」
 ラインヴァルトは口を閉ざした。頬に与えられた軽い衝撃に驚いて瞬きを繰り返す。
 叩かれたのだ、と彼が理解したのは少し時間が経ってからだった。
「契約がどういったものか、本当にわかっているの?」
 感情のまま立ち上がり、見下ろすエリザベートは無表情だ。
 その目の冷たさにラインヴァルトが息を呑む。それでも、負けじとばかりに言い返す。
「わかっています」
「いいえ、わかっていない」
 幾分か低い声にも少年は怯まない。
 しばし睨みあうかのように視線を交わす。ふたりの間に沈黙が漂った。
 険しくしていた顔を僅かに崩してエリザベートがため息を吐く。
「わかっていない」
 呟いてエリザベートは腰を下ろした。肘をつき組んだ両手を口元にあてて、もう一度息を吐く。
「……どこまで知っているの?」
 上目遣いで訊ねると、ラインヴァルトは少し考えるような仕草をした。
「ええと……エリザベート様が血を与えて契約を交わした相手は、主の命に従い主と同じ時を過ごす。役目を終えたときには、主と共に自然へと還る……間違っていますか?」
「いいえ」
 短く肯定し、しばし逡巡してからふたたび口を開いた。
「どこでそれを知ったの?」
 感情を抑えてエリザベートが問う。使い魔たちが話すとは到底思えなかったのだ。
 しかしそんな彼女の考えを覆す言葉が返ってきた。
「仕事の合間にみんなに教えてもらいました。お前もいずれは主のために働くのだから。世話をしてもらっているのだから当然だろう、と」
 思っていた以上にお喋りだったらしい。いや、彼らが多弁であると気づかず、また他言しないよう言い含めなかったのは自分の失態だ。
 無邪気な顔の少年に怒る気も失せて、エリザベートは苦笑する。
 彼は落ち着いた様子だ。押し黙って次の言葉を待っている。
「先ほども言ったように人間には立ち向かう術がないでしょう」
「それはそうでしょうけど。契約すれば問題ないんじゃないですか?」
 どうかと尋ねられれば答えは是だ。人間も、素を正せば自然から生まれた生命。可能だろう。しかし、人間と契約を交わした結果がどのようになるのか、試したことがないから彼女は知らないのだが。
「わたしはできるだけラインヴァルトを巻き込みたくないの」
 エリザベートは殊更優しく言葉を紡ぐ。これは心からの願いだ。何も知らないままですむのならばそれが一番だ。
 だが、そんな彼女の心中などお構いなしと言わんばかりに、ラインヴァルトが笑みを浮かべた。
「もう巻き込まれてます」
 ぽつりと呟かれた言葉に、エリザベートは開きかけた口を閉ざした。
「贄となったときから僕の運命は決まったんです。エリザベート様言いましたよね? 僕の人生は僕だけのものだって。最初のきっかけはあっても、どうしたいか決めたのは僕です」
 ラインヴァルトは言って、エリザベートを真っ直ぐに見つめる。
 確かに、言った。
 エリザベートは言質を取るような物言いに、少し顔を引きつらせる。
「――なかなか強情ね。誰に似たのかしら」
「さぁ? ここへ来てからは、ここに住むご主人様に色々と教わりましたから。その方ではないですか?」
 しれっとしたラインヴァルトの物言いに唖然とする。
 瞬きを数回繰り返してから、エリザベートはこみあげてくる感情に相好を崩した。



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