「あ天の盃≠セ」 月詠神社を参拝していた少女の声を耳にして、彩華は手を止めて空を見上げた。 薄朱に染まった空の反対側に、上弦の月よりも幾分か膨らんだ月が浮かんでいる。 「えー? ……こういうとき何て言うんだ……? えーと、満月だから」 問われたもうひとりの少女はしばし唸り、結論が出たのか友人に向き直った。やや苦笑しながら口を開く。 「……あれはちょっと満ちすぎじゃない? 盃って言うより、ボール?」 言いながら片手首をぐるぐると回した。どうやら料理で使う泡だて器を表現しているらしい。 彩華はふたりのやり取りを見て、もう一度空を見上げる。しばらく考え事をしていたようだが、答えは出なかったようだ。隣に立つ少女たちに問いかけた。 「ねぇ、天の盃って、なに?」 「知りません? 月の神社だから、そういう話も詳しいのかなって勝手に思ってたんですけど……」 言いづらそうに少女が口篭もる。その様子に彩華はくすりと笑った。 「先輩のときってそういうのなかったですか?」 質問されて、彩華はうん、と頷く。 「でも七不思議とかはあったよ。中学にもあったし」 学生時代を思い起こして懐かしむ。それに立場柄そういった話は意識しなくとも耳にする機会が多かった。 だが知らないことも沢山ある。 疑問符が浮かぶ彩華に、ふたりは月にまつわる話を丁寧に説明しだした。 「皿に水が満ちてゆくように徐々に願い事が叶うっておまじないです。月の雫が器から溢れる頃には願い事が叶うだろうって。月をグラスに見立てることもあるとか」 「それで受け皿の月、天の盃、なんだね……確かに三日月って平瓮に似てるし」 これね、と授与所に置かれていた物を少女たちに見せる。彩華が手にしているのは、薄い皿状のものだ。 「なんですかそれ」 「神様への供物を盛るんだ。土器って言ったりもする。これには米か塩ね。盃って言うとお酒のイメージだけど、お酒はこっちの瓶子に入れて……」 彩華はそう言いかけて口を噤む。それから少し考えるような顔をした。 神に酒を供えるときは、いわゆる猪口のような器は使わない。 「……あぁでも御神酒盃として使うこともあるから間違ってはないかな?」 後半は誰かに聞かせるために言った訳ではないらしい。きょとんとする少女たちを尻目に彩華は独りごちた。考え事をしつつも手は休めていない。長年の慣れなのだろう。手際よく片づけている。 「先輩?」 怪訝そうな声に我に返った。 「ごめんボーっとしてた」 非礼を詫びると、少女は慌てて否定した。 「いえ。こちらこそお仕事中に押しかけてスミマセン」 「気にしないで」 笑って、表に出していた神籤の筒や御守の箱を授与所内に入れる。 「もう閉める時間だから」 夕方となれば参拝者はまばらだ。行事があれば違うのだが、日が落ちる頃を狙ってわざわざ参拝する者は少ない。 「そろそろ暗くなるけど、帰らなくて大丈夫? 変な通り魔事件もあるようだから、車出そうか?」 噂がただの噂ではないことは知っている。だが、悪戯に騒ぎ立てて相手を混乱させるのは避けるべきだと判断した。 「大丈夫ですよぅ。ここから近いですし」 彩華の申し出を少女は柔らかく断った。だが、 「本音を言えば、ちょこっと怖いですけどねー」 そう言って恥ずかしそうに笑う。 「えー? そういう話、好きだったじゃない」 高校時代を思い出した彩華が笑いながら訊ねる。 途端に、少女が真顔になった。 「え……まぁ……今も好きなんですけど……」 言いよどむ少女の顔は心なしか青ざめて見える。 「何があったの?」 様子がおかしい事を察した。いつもは怪談話も少しユーモアを含んでいたのだ。 彩華は顎を引いて真っ直ぐに少女を見た。自然と術者の顔になる。 「そのために来たんでしょー」 友人に促されるが用件を切り出せないでいる。 しばらく黙っていた少女は、やがて話しはじめた。 「その、噂話を聞いてたら興味持って……色々調べてみたんですよ。あたしが聞いたのって、同じ天の盃≠チて名前でも、受け皿の月のおまじないと、おまじないをした人間を食べちゃうって二つあって。似ているけど違うところが面白いなって思って」 幾分か声は小さい。怯えているのか、肩が震えている。先ほどまでの陽気な感じがない。 「そうしたら、今度は別の天の盃≠フ話を聞いて」 他にも情報はないかと思い、検索サイトを開いた。 「色々な噂話を集めているサイトに、魔女が使い魔を操って血を集めているっていうのがあって」 使い魔には様々な種類があり、一般的には動物が多いとされている。状況にもよるが、鳥が空を飛んでいる姿を目撃して勘ぐる者は少ない。 「人に見えないように姿を消して行動することもあるとか」 ただの噂。ただの作り話。 心のどこかでそう思っているから、怖いという感情は一切なかった。寧ろ神秘的に感じた。 「でも、それを読んだ次の日だったかな。半透明の、鳥みたいなやつが、すーっと目の前を横切って」 なぜだかわからないが急に怖くなってしまった。 はっきりと見えない霊体も、血を欲するというのも、怪談話では定番だ。「これを見た者は呪われて必ず死ぬ」などと書かれていても平気だ。今までどんな物を観ても怖いと思うことを楽しむ∴ネ外に感情は起きなかった。 ――でも、霊体験と思えるものは今回が初めてだった。そのうち、友達と心霊話をしただけだったとしても霊的な物に関わってしまった≠ニ思い込むようになった。 「色々なこと考え出しちゃって、そのせいか、変な夢まで見ちゃうし……」 そう言って、少女は下を向いたまま微動だにしない。 「うーん……そうだねぇ……」 それだけ言って、目を細める。神経を集中し妖気を探る。 少女は俯いたままだ。 少女に妖気の類は感じられない。偶然遭遇しただけでも影響を受けるものなのだが、一片も残っていない。 かといって、嘘を吐いているとは思えない。 成り行きを見守っていたもうひとりの少女が声をかけようとした頃、ようやく彩華が口を開いた。 「大丈夫……と言っても心配だよね」 明るさを帯びた彩華の声に少女が顔を上げる。いつもと変わらぬ表情に拍子抜けしたのか、放心した様子だ。 「どういった類のモノを見たのか、話だけじゃはわからないけど、変なモノではないよ」 何の迷いもなくそう断言されて、少女がますますポカンとする。 「……ヘンな顔!」 「え? ……ひどーい!」 友人の茶化しにあい、白くなっていた少女の頬に赤みが差す。話したことで気が軽くなったのだろう。 ふたりにつられて笑みを零していた彩華だったが、不意に真顔に戻って言った。 「実際、妖怪や幽霊とか昔からの不思議なモノって、目の錯覚が多いからね。それっきり変なことがないのなら、気にしなくて平気。昔ながらの妖怪の話って、悪さをする子供を戒めるために作られたようなものだから、怪談話が怖いって思うのも自然な感情だから、問題なし」 もう一度言い切ると、少女は安心感が増したのか、にっこりとした。 その後もふたりで楽しげに笑う姿を見て目を和ませる。 遭遇したそれが幻ではなく本物だったならば、僅かな不安の種に他の異形が近づく可能性はある。 だが、もう大丈夫だろう。 彩華が授与所の扉を外から閉め、声をかけようとふたりの方を向いたとき、 「――こぉら。高村サボるな」 「はいっ。……?」 背後から聞こえてきたやや低めの声に彩華は肩を揺らす。 だが、すぐに訝って頭をひねる。突然のことに驚いて、いつも以上に背筋を伸ばしたのだが、声質に違和感を覚えたのだった。 どことなく笑いを含んでいた。地声ではなく作ったような不自然さ――それに、聞いたことのある声だ。 「有紀ちゃん?」 すると、振り返らずとも楽しげな様子が伝わってきた。 「正解」 横から顔を出した有紀が、にやりと意地の悪い笑みを浮かべた。 神妙な雰囲気をかき消すように境内に笑いが起きる。 遠くを歩いていた黒猫が、一度だけ不思議そうに振り返った。 |