たいじや -天の盃- 7−1
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 等間隔に設置された街灯に照らされて、薄暗い道に人影が現れた。
 軽い足音を立てて歩くその人影は女のものだ。ひとつに纏めた黒髪が動きに合わせて揺れている。薄闇の中でも柔らかい光を放つその様は、何かを誘っているようにも見える。
 女はどこへ向かっているのか。一度だけ夜空に浮かぶ満月へと視線を流したが、それ以外は脇目も振らずにただ真っ直ぐ前を見つめて歩いてゆく。
 時刻は夜半前。
 住宅が並ぶこの通りは夜が更けると行き交う人も少なくなるが、閑散とした雰囲気にはならない。僅かながらでも外へ漏れる家の明かりや生活音が緩和しているのだろう。
「――」
 女の歩みが一瞬だけ止まった。自動車のヘッドライトを目を細めてやり過ごし、何事もなかったかのように横道へと入る。
 途端に静けさに包まれた。民家はそこかしこにあり、真夜中でも決して無音ではないのだが、表通りとは雰囲気が変わる。
「どうした?」
 路地へ入って少ししたところで、声がかかった。
 女はひとりではなかった。彼女の足元には付かず離れずの距離を保ちながら歩んでいる黒い塊がいた。
「どうした……って何が?」
 足を止めて訊ねると、暗闇に丸い光が浮かんだ。黒い塊が数歩近づき女を見上げた。
 街灯が切れているらしく、彼女の周りは薄闇に包まれている。
「曲がる前、一瞬止まっただろう? 何か感じたのか?」
「あぁ……」
 合点がいって、女――彩華は肩を竦めた。苦笑しながら足元にいるであろう黒猫の疑問に答える。
「違うよ。ライトが眩しかっただけ」
「そうか。人間は色々と不便だな」
 瞬きを繰り返して目が暗闇に慣れてくると、それまでぼんやりとしていた塊の姿が見えてきた。黒猫の尻尾が左右に揺れている。
「ねぇ、何も準備してこなかったけど、本当に大丈夫なの?」
 幾分か声を抑えて聞く。
 まだ視界ははっきりとしていないため、相手が頷く気配のみで回答を受け取る。
 続けて、黒猫が言葉を発した。
「あぁ。お前とオレがいれば十分」
「出かける前もそう言ったけど、どういうことなの? 月影」
 重ねて問う頃にやっと目が慣れた。だが、少々不便である。
 彩華は手招きしながら、少し離れた場所へと移動する。壊れていない街灯の下だ。
 おとなしく後をついてきた黒猫と視線をあわせるべく膝を折った。
 ついと辺りに視線を走らせて誰もいないことを確かめると、彩華は再度訊ねた。
「どこにアレが出現するかわからないから、餌を撒こうと思ってな」
 一度対峙したお陰で感じる妖気からおおよその検討はつくが、こちらの行動を読まれて逃げられては元も子もない。大した知能はなさそうだが念のため、とは月影の弁だ。
「彩。お前の血を――そうだな、一滴くれ」
「血? 一滴でいいのね?」
 首を縦に振るのを確認して、彩華は小さく言葉を紡いだ。
 彼女の右手に淡い光が集まる。それを指で摘むようにすると、光は細長い針状になった。左手の親指に持ってゆき、先端を皮膚に潜りこませた。
「……っ」
 軽い痛みに眉をしかめて針を離す。
「はい」
 傷口から流れ落ちるそれをこぼさぬように月影の目前へ指を持ってゆくと、彼は血へ息を吹きかけた。
 途端に、一滴の血は青白い光を帯びて霧散する。
 ふたりの周りに浮遊していたそれは、やがて何かに呼ばれたかのようにいずこへと飛んでいった。
「これだけでいいの?」
 言いながら、彩華は右手の指を擦りあわせた。すると、音もなく、自身の気力を寄り合わせて作成した針が消滅する。
 左手の傷はすでに塞がっている。小さな傷だから心配無用なのだが、幼い頃から『血には気をつけろ』と言われ続けているため、確認する癖がついているのだった。
 彩華は視線を黒猫に戻した。
「居心地が良いのは、真っ暗な、澱みきった陰影だが、光に群がる虫と一緒でな。生命力溢れる存在だとか、力を持っているやつに惹かれて寄っていくのさ。術者の生命力溢れる気に、オレの気を上乗せしたからな。これ以上はないってほどの良い餌だ」
 月影が上出来と言わんばかりに仰々しく頷く。
 先ほどの血を餌にして異形を誘い出すつもりらしい。
「本当は、生まれたての赤ん坊が良かったんだけど、それは可哀想だからなー」
 昔は生贄にしたって言うが――。
 月影の呟きに彩華が顔をしかめる。
「やめてよ」
「……すまん」
 素直に謝る月影にそれ以上文句は言わず、そっと息をつく。
 生命力は成人よりも生まれたばかりの命の方がより強い。なにしろ命がけで生まれてくる。それに、手が加えられていない無垢な存在は、それだけで価値があるのだ。
 彼の言っていることはわかる。事実を述べただけで、悪気がなかったのもわかる。
 だが少しだけ気をつかって欲しかったと思うのは、自分勝手だろうか。
 彩華は唇を小さく噛んだ。
 このような生業をしていると、あまり耳にしたくない内容も入ってくる。特に海外の文献には、ぼかして書いてあるものの、かなりきつい物もある。
 今更何も知らない振りをする気はないのだが、心が痛む話はできるだけ聞きたくないのが本心だ。
 だがそれは、術者としては甘い考えである。正邪両方を知ってこそ真実を見極められるのだ。
 彩華は心に浮かぶ様々な感情を胸にしまい立ち上がった。
 思い込みや偏見は冷静な判断力を奪う。今は考えるよりもやらなければならないことがある。
 月影を促して歩き出した。
 彩華の髪が夜風に吹かれた。
 纏めているとはいえ、少し強い風に煽られて乱れる髪を押さえながら、彩華は不思議そうな声を洩らした。
 目の端に、きらりと光る物が映った。
「なんだ?」
 なんでもない、と言いかけて口を閉ざすと、月影も同じように神経を張り巡らせた。
 鳥の羽音がする。姿は見えない。気のせいだと言われてしまえば反論はできないほどの小さな音。それも一瞬だった。
 彩華は聴覚に頼るのは諦めて、精神を研ぎ澄ました。
 僅かだが気配を感じる。妖気ではなく、どちらかというと森気――自然の生命力に似ていた。
 力を感じる辺りに集中する。
 暗闇の中、遠くに光を見つけた。淡く発光しながら宙に浮いている。
「違う。飛んでるんだ」
 彩華の呟きが聞こえたのか、それとも角を曲がったのか、光が消えた。
 一瞬視えたアレは、妖怪や付喪神の一種ではないようだ。だとすると、思い浮かぶのはひとつ。
「式神っていうか、使い魔っていうか。……見たって言ってたの、あれかな……」
 誰に言うともなく呟くと、黒猫の尻尾がぴんと張った。
「あぁ……この間、神社に来ていた奴らか」
 納得したように言い、
「女三人寄ればなんとやら、ってな」
 と、身体を揺すって笑う。
「ごめんね。うるさかった?」
 今更ながら、月詠尊が騒音を好まないことを思い出し、彩華は非礼を詫びた。
 神聖な神社でやたらと騒ぐのは以ての外だ。祭の最中ならばともかく。
 内心失敗したと思ったが、済んだことはやり直しはできない。
 彩華は恐る恐る相手の様子をうかがう。月影が怒っている素振りはない。
「騒々しいのは好かんが賑やかなのは悪くない。あいつも、気に障るなら表に出てこないで奥に引っ込んだままだろう」
 月影の言葉は尤もだ。本気で嫌ならば人型などとらず、とうの昔に人界との関わりを避けているはずだ。
 彩華は小さく頷いて立ち上がった。いつまでも一カ所に留まっていれば不信に思われていまう。なにより、ここは狭すぎる。
「道草したな。急ぐか」
 頷いて、彩華は歩みを早めた。ここから目的の場所は少しばかり離れている。
「ねぇ」
 数歩先――といっても相手は猫の姿なので、実際は彩華の歩幅で一歩程度なのだが――を歩いている月影が振り向く。
「うん?」
「えっと……ね」
 妖が罠≠ノかかるにはしばらく時間が必要だ。それまでに聞いておきたいことがあった。
 彩華は以前から聞きそびれていた疑問をおずおずと切り出した。
「今回の異形って、結局どんなモノなの?」
 外来種とも呼べる異形で、血を好んで吸う。おそらく外見は木の化け物。
 どうやら満月と新月の夜に活発になる。
 断片的に特徴は聞いているが正直言ってよくわからないのだ、と言うと、月影は困ったような顔をして笑った。
「なんだ。わからないまま調伏に出たのか?」
「うん。わたしの力で退けるのなら、大した問題じゃないと思ったから」
 彩華が素直に頷くと、喉の奥で笑う声が聞こえた。
「んーまぁ……それなりに、弱いな」
 言って、月影は塀の上に飛び乗った。
 そのまま進んで行くので、彩華は黙って後をついていった。
「洋物と対峙するのは、たぶん初めてだからなー。オレもどう言ったらいいのかわからんのだがなー」
「たぶん初めて、なの?」
「もしかしたら相手のことを良く知らずに消しているかもしれんが。オレ単体は、ないな」
 後半きっぱりと言い切られて僅かに眉根をよせる。
 いい加減だと思った訳ではない。
 どのような性質か、弱点は何か。一切の情報がなくとも対応可能ということに、人間《わたしたち》とは違うのだと改めて実感したのだ。
「日本にも樹霊なんてのがいるけど、それとはまた違っているしなぁ。そもそも、神の括りになる精霊とアレを一緒にしたら罰当たりか」
 独り言のように呟いて、月影はちらりと背後に目をやる。
 異変はまだない。
「月影は正体わかってるの? 思い当たる似た妖、とか」
 訊ねると、黒猫は口の端を持ち上げて笑った。
「さぁて。何とも言えんな。一種の付喪神と考えてもいいと思うが。――例えば、河童が長い年月を経ても妖樹になるのは不可能だ。異なる存在だからな。だが、ただの樹木に何らかの魂が宿れば、それが妖樹と呼ばれる存在になり得るかもしれん」
 もしかしたら文献や先祖が残した記録書に記されているかもしれないが、如何せん確認する時間はほとんどない。
 なにしろ高村家の書庫には、一日や二日では全てに目を通すことが不可能なほどの書物が眠っている。しかも訳有りで処分してしまった物も多数あるのだという。該当する書物が必ずあるとは限らない。
 それに、急に入ってきた仕事では一々調べていられない。相談者は一刻も早く解決をと望んでいるのだから。
「都度有利な方策を見つけるのもいいが、大抵は退魔法をひとつ知っていれば問題ないからなぁ」
 のんびりとした月影の言葉に頷いて返す。
 最も良い方法を探している間に事態が悪化しては意味がない。
 ならば今持ち得る術で迅速に事を終わらせるべきだと彩華は考える。
「じゃあ、もう単純に樹に擬態した化け物と捉えていいのかな」
 月影が頷いた。
 樹霊。または木霊。
 片や土地を守り人間を守るもの。片や人間を脅かす異形。不可思議な存在として見れば一緒と思えるが、似て非なるものだ。
「古臭い妖気と真新しい妖気が入り混じってるような感覚は、いささか気になるんだけどなー。しかも複数ってなぁ」
 ぶつぶつと呟く月影の言葉は、彩華の耳には入らなかった。
「……どうした?」
 考えこんでいる彩華に気づいた月影が声をかけた。
「繁殖方法も植物に似てたら嫌だなぁって」
 種をどこかへ隠されてしまったら探しようがない。
「それはオレも考えた。だがもう一度妖気を体感できれば、残滓だろうが仲間だろうが逃がさん」
 なんとも頼もしい言葉だ。
 思うと同時に、彩華は真剣な面持ちになった。
 本当は、自分で見つけ出さねばならないだろう。誰かに頼ることなく。いくら仕事を手伝ってもらっているといっても、まず先頭を切るのは己でなくてはならない。
 思わず手のひらに爪を立てていると、
「あまり気に病むな」
 月影から声がかかった。
 心情を読んだかのような絶妙なタイミングに驚いた彩華が足を止める。
「お前はわかりやすい」
 露骨に顔に出ていたのだろう。愉快そうに笑われて、彩華が渋い顔をする。
「真面目な話、なにも全部ひとりで抱えこむ必要はないんだぞ? 向き不向きは必ずあるし、役割分担というものは大事だ」
「役割分担?」
 月影が頷いた。
「すべてのことをひとりでやろうとして、結局手が回らず全部を駄目にしたら不毛だろう? ならば素直に手を貸してもらえ。そうして、まずは得意分野で力を発揮すればいい」
「そうね」
 彩華が頷き返す。
 最初から最後までひとりでやり遂げることも大事だろう。しかし己を過信して、ただならぬ事態が生じては意味がない。
 彼の言うように、まずは自身の役回りをきちんとこなすこと。
 では、自分には何が可能か。
 退治屋としての役割は、霊障の原因を突き止めてそれを祓うことだ。原因がわからなければ、父や兄――それこそ月詠尊に助言を乞う。
 時にその逆も然り。あまり馴染みのない事柄について意見を求められる場合もある。
 神社の祭神である月詠尊とは縁あって関わりを持っているが、怨霊調伏に関しては彼の親切心からだ。本来ならば放っておいてもよいものを、気にかけて手伝ってくれている。
「ご縁って不思議なものね」
 ぽつりと洩らした言葉を耳にした月影が、なんだと訊ねるような仕草をする。
 先祖が月詠と出逢い絆を深めなければ、月影と出逢うこともなかった。
 神社を通して知り合った友人から、後々ヒントになる言葉を得たりもする。
 互いに助け合う関係を築いてゆくことは必要だ。何物にも代えがたい貴重なものだろう。
 神妙な顔つきで考えていると、横から笑い声が聞こえた。目を細めて黒猫が笑っている。
「そんなに深く考えんでも。調伏に関してなら、お前の場合は……あれだ。神の胃袋をガッツリと」
「なによそれ」
 彩華は意味がわからず首を傾げる。
「人ならざるものを手懐けるの得意そうだからな、お前」
 褒められているのか馬鹿にされているのか。少し複雑な気持ちで彼を見た。
「でも、妖怪はどうかと思うからなぁ……。神を喜ばせて、縁を持って、困ったときに助けてもらうと。巫女の仕事だな」
「それなら巫女神楽で十分よね?」
 神楽≠ヘ文字通り神を楽しませる≠スめの舞だ。神を喜ばせて縁を結ぶ。
 神事はそれで事足りるはずだ。考えを巡らせても、それ以上は思いつかない。
「舞だけでは不十分だ。神饌しんせんは、なくてはならないものだ」
 言い切られて彩華は少々面食らった。
 神社には、神事の最後に直会なおらい≠ニいう行事があり、神前に上げた神酒や神饌を神職や祭典に関わった者たちでいただく。これには、神霊の力を分けてもらい加護をお願いするため、ひいては神との繋がりを得る意味がある。
 だから、彼の言い分には確かに納得のいくものはあった。
 ――あるのだが。
 彩華から、ふっと笑いがこぼれた。
「……それって……月影が遠回しにお供え物を欲しがってるだけじゃないの?」
 図星なのかそれとも丁度そのとき聞こえなかっただけなのか、返事はなく、黒猫の尻尾が揺れるだけであった。
 そういえば、と彩華は思う。
 毎朝の神饌は神前に供えているが、それとは別におすそ分けなどをしていた。
 しかし、ここ数日は気が回らなかった。その程度で怒り出すような心の狭い神ではないが、迂闊だったかもしれない。
「何か食べたいなら用意するけど。……もう夜中だし、帰ったら御神酒持っていこうか?」
 尻尾は相変わらず左右に揺れている。が、一瞬だけぴんと張ったのは見逃さなかった。
 強張っていた彩華の頬がいくらか緩んだ。



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