しばらくして、行く手に山の頂が見えてきた。山と言っても、せいぜい小山か、丘程度の標高しかないのだが。 流れてきた雲によって月が隠れた。幾分か辺りが暗くなる。 彩華は夜空を一瞥して、 「……騒がしくなっても平気かな」 あの場所に棲むふたりの子供の姿を頭に描き呟いた。 目指すは空輪山だ。近場でそれなりに広い場所。なおかつこちらに有利なところとなると、選択肢は少なくなる。 話はつけてある、と月影が言った。 「月詠と縁を結んだんだ。元々、気脈が乱れていたのを正してやったんだから、それなりに手伝いはして貰わなけりゃ――」 月影が突然ぴたりと止まり、口を閉ざす。少し遅れて湿った空気を肌に感じた彩華が足を止めた。 息を詰めて様子をうかがう。静まり返った辺りからは何も聞こえない。 ――否。 ガサガサともズルズルとも聞こえる物音が近づいてきた。 背中に冷たいものが流れた気がして、彩華は思わず身震いする。 漆黒の闇に、妖気が満ちる。 彩華の顔にさっと緊張が走った。後方から駆け抜けてゆく風が髪を乱す。 風は生温く感じた。 すかさず振り返った彩華は、塵が入ったのか、反射的に目を瞑る。 少しだけ目を赤くしてすぐさま前方に向き直る。 言葉も、視線すらも交わさずにふたりは走り出した。 次の瞬間、背後からガンッ、という音が聞こえた。続いて、重量がありそうな、鈍い金属の音がした。 気にはなるものの、振り向いている暇はない。 もう一度、重い金属音が後方で聞こえた。感じる妖気は、距離が縮まっているものの、まだ少し離れている。 じわじわと追ってくるモノを確実に連れて空輪山へと行かなければ――。 ふいに、彩華の身体が僅かに傾いで、動きが遅くなった。眉間に皺をよせて懸命に足を動かすが、とうとう止まってしまう。 「ばかたれ。こんな陳腐な仕掛けに捕まってどうする」 地面に降りた黒猫は、暗闇を睨みすえてから彩華を一瞥する。 「ごめん」 月影の叱責に、彩華は短い返事しか返せない。全身を蝕む倦怠感のせいで、思うように身体が動かない。それでも一歩また一歩と進む。 同時に、短く深呼吸を繰り返すと、身体中を巡る毒が少しずつ外へ出てゆく感覚を得た。 だが、安堵したのも束の間。 「待て、彩」 己を制する鋭い声に、彩華は再び走り出そうとして止めた。 足下を通り過ぎた陰気な気配を感じ取り、月影は前方をひたと凝視する。 薄暗い街灯に照らされたマンホールが、ずっ……と音を立てて浮いた。 目に見えぬ力が働いたのかと思ったが、そうではなかった。何かが下からマンホールを押し上げたのだ。 月影が彩華の前に立つ。その身は牽制するように青白い焔を纏っている。 「妖……」 小さく声をもらして彩華は同じように一点を睨みすえた。 意識を集中せずともそのモノを目視することができた。よほど自信があるのか、異形は己の姿を隠そうとはしていない。 穴から、まず揺らめくモノが姿を現した。焦げ茶色のそれは、先端が細く、地下に向かって徐々に太くなっている。表面がゴツゴツとしているのが見てとれて、触れれば皮膚が切れそうだ。 あれが妖樹の枝なのだろう。繋がっているはずの幹にあたる本体は、地上からは確認できない。 枝は獲物を探しているだろうか。不規則な動きを繰り返している。 波のようにうねるその様子に嫌悪感を抱いて、彩華は思わず顔をしかめた。 「うわ。よくよく見ると醜悪だな。木なら植物らしく、ぴんと背筋伸ばして花でも咲かせていれば良いものを」 「ちょっと遭遇早過ぎだと思うけど、ここで退治する?」 吐き出された感想に心の中で同意して、彩華はひとつの案をもちかけた。 場所が狭いのは難点だが、相手は確かに弱い妖だ。一、二発で仕留める自信はある。 「それでも構わないが」 月影の焔が僅かに強まった。 「折角だから、全体を拝むってのはどうだ?」 彩華は考えるような仕草をした。 後学のために確認しておくのは良いかもしれない。 承諾すると、月影が駆け出し宙を舞った。軽い身のこなしで、浮いているマンホールへと降り立つ。同時に、その体を包む闘気が光を増した。 ガンッと大きな音が響く。勢いに任せて、月影がマンホールの蓋を閉じたのだ。 音にならない悲鳴が空気を振動させる。 下水道へと続く穴から地上へと露出していた妖の一部が、蓋が閉じたときの衝撃で切断されたのだ。 本能なのだろうか。樹木の枝を思わせるその部分は、地面へ落ちてからもしばらく動いていた。ぴくりとも動かなくなったそれは、端から崩れて砂のようになってゆく。やがて、風に煽られる頃には大気に溶け込み跡形もなくなった。 それっきり無音だ。足下から妖気は感じるものの、動く気配は感じられない。 「うん?」 月影が声を洩らした。彼はまだマンホールの上に立っている。その体が浮いた。 ず……と音をたててマンホールが少しだけ開いたのだ。隙間から妖気が流れ出てくる。 妖はそれ以上何もせず、こちらをうかがっている様子が感じられた。 「逃げないのならば好都合」 反撃する機会を狙っているのだろうか。西洋の異形は妖気を洩らしたままで、いまだに動かないでいる。 逃げ出さずこちらに興味を持ってくれたのならば、まずは作戦成功だろう。 「んじゃ、ぼちぼち移動するか」 己の足下を睥睨して、月影が言った。 隙間から、妖樹の枝とおぼしき細長いモノが這い出てくるのが見えた。 「彩、行くぞ」 月影が四肢に力をこめた。 ふたたびマンホールが閉まる。にじり出ていた妖樹の一部は、その衝撃で消え去った。 下から空気の抜けるような音がして地面が微動する。 妖樹の怒気をかすかに感じながら、ふたりは駆け出した。 ふたりを次の獲物と狙っていた妖樹は、徐々に速度を上げて追い抜いていったらしい。 目前のマンホールが先程とは打って変わって素早く開き、下から異形が這い出てくる。 仄暗い闇の中。一本の木がその姿を現した。 幹はずっしりとしていて、彩華が想像していた以上に大木であった。それでも二メートル弱だろうか。伸びる枝には、葉はほとんど生えていない。 ぺたり、と湿った足音がした。 目を凝らしてよく見ると地面が濡れていた。 おそらく下水道を通って水に濡れたのだろう。通常、土に埋まっている根の部分が色濃く変わっている。 ふいに妖樹がひとまわり成長したかに見えて、思わず息をのむ。 だがそれは彩華の思い違いだった。妖樹が身をくねらせながら、彩華と月影に近づいたのだ。 「随分自信あるんだなぁ」 月影が感嘆の声をあげた。されど眼光は鋭い。 ざわざわと音を立てて枝がしなった。そのとき生じた葉音は、まるで妖樹が笑い声をあげたかのようだった。 枝をくねらせている様は、獲物を前にして喜々としているように思える。 彩華は顔をしかめた。 「どうした」 「うねうねしたのって、わたし苦手みたい」 言って、彩華は身震いする。心底嫌そうにうんざりした顔をしている。 「じゃあ、ここの子供も嫌か」 「神様と眷属は別」 どこか面白がっているような響きを感じて、にべもなく返す。 ここの子供、とは、空輪山に棲む蛇の精霊たちのことだ。彼らとはやはり縁が巡って、今では月詠神社と密かに繋がりを持った。気脈も繋がっているため、他の場所よりも有利に動ける。 また一歩、妖樹が近づいた。 「彩。山ん中に追い込め」 「わかった」 素早く距離を測る。 妖樹との間は目測で三メートルあまり。階段はすぐそこだ。 彩華は、深くひと息吸い込んでから神呪を口にした。 言葉は瞬く間に形を成して、淡く光る矢に変化した。そうして、すぐさま妖樹へと飛んでゆく。 光の矢は妖樹の幹を掠めて落ちた。と同時に悲鳴が上がる。 一本目の矢は妖樹の気を逸らすためにわざと外した。だが、続けざまに放った二本目が、的確に撃ち抜いたのだ。 奇妙な声をあげながら妖樹が身悶える。それでも致命傷にはならないためか、活動を停止する様子はない。 「縛り縄 不動の心 あらん限りは」 間髪を入れずに彩華が言葉を紡ぐ。 言霊の力により大気が歪み不可視の縄が現れた。縄は瞬時に妖樹を捕らえて動きを制御する。 耳障りな音波が辺りに響き、彩華は眉を寄せた。 だがそれも一瞬のこと。妖樹から目を逸らさずに言葉を紡ぐ。 次いで現れたのは、柄のない刃だった。風刃と化した霊力は、術者の命を実行すべく飛んでゆく。旋回しながら妖に近づき、勢いを衰えさせることもなく、むしろ増しながら襲いかかった。 空気を切り刻みながら不可視の刃は妖の体を伐採してゆく。幾つかの枝が地面に落ち、瞬時に跡形もなく消え去る。 妖の絶叫が響き渡った。 彩華たちは別段慌てることもなく、妖樹を見据えている。 妖の声は常人の耳に届かないとわかりきっていたためだ。霊力の長けている者ならば気づいたであろうが、素質のない人間には強い風が吹いた≠サの程度でしかない。 怒気を孕んだ咆哮が空気を振動させる。風は妖樹の憤激を表しているようで、重圧感を含んでいた。 虚を衝かれた彩華の身体が傾ぐ。 妖は、その一瞬の間を見逃さなかった。 残っていた枝が勢いよく伸びて攻撃を仕掛ける。蔦のように柔らかくしなり、彩華の左手首に絡みつく。 「――くっ」 前へ引っ張られるのを足に力を入れてやり過ごし、体勢を立て直す。 「彩っ」 「平気」 短く返してから、 「風斬」 やはり短い呪を紡ぐ。効果は弱くなるのだが、手間がかからない分速効性があり、使う霊力も少なくすむ。 腕を拘束していた枝を難なく切り落として彩華は身を引いた。 風が唸る。 残った枝を闇雲に振り回して妖が騒ぎ立てた。 視線を交わしてから、彩華と月影は階段を駆け上がった。 一気に登りつめても息が弾むことはなかった。やはり気脈が神社と繋がっているからだろうか、と彩華は思う。 永遠に枯れない泉のように、とはいかないが、霊力が湧き出てくる感覚がある。今なら強敵相手でも通用しそうだ。 だが油断は禁物。身体の軽さが気脈によるものなら、己の力だけではないのだから。 高揚する気持ちを抑えるように叱咤して、妖と対峙する。 全体を揺すりながら追いかけてきた妖樹は、登りきったと同時に攻撃を仕掛けてきた。刈り取られなかった数本の枝が柔らかくしなる。 「痛っ……」 避け切れなかった枝の先端が彩華の頬を掠めた。こめかみあたりから左頬にかけて一文字のミミズ腫れが走る。 「なにをしている」 呆れと憂慮を含んだ声に苦笑を洩らした。 「油断した」 指をやると、滲んだ血が少しついた。だが大した傷ではないようだ。 「あとでちゃーんと消毒しとけよ」 月影の体が青白く発光する。丸く形を成した霊力が、今度は三日月型となり宙を滑る。 声をあげて妖が荒れ狂った。ぎゃあぎゃあと喚き散らして枝を振り回す。 妖樹から切断された枝が最後の足掻きと言わんばかりに空を舞うが、あえなく砂塵となった。枝を一本のみ残して、光の鎌は消滅する。 欠陥を修復する能力を持つ妖ではなくて良かった、と彩華は思う。そうでなければ、うねうねと蠢く枝に手間取っただろう。 「情報は十分に得た。さっさと済ませて帰るぞ」 頷いて、彩華は全身に霊力を滾らせた。風もないのに黒髪がふわりと浮き立つ。 妖樹がますます騒ぎ立てた。辺りに充満しつつある霊力に反応したのだろう。唯一の枝を使い必死の抵抗を試みている。 彩華の耳元を枝が掠めたがもはや動じない。 妖の背後から駆け抜けてきた疾風に驚いて、彩華は思わず目を閉じた。 仕事中に目を逸らすなど言語道断だ。慌てて手の甲で目を擦り、涙と一緒に塵を流す。 少し赤くなった目で妖の姿を確認する。 大きく振りかざした枝と、夜空に浮かぶ丸い月が重なり、盃を振りかざしているように見えた。 攻撃を軽くかわした彩華は素早く印を結んで口を開きかけた。 「待てっ」 月影の命に従い、即座に術の発動をやめる。それと同時に淡い光が視界を掠めた。 |