たいじや -天の盃- 7−3
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 妖樹は、彩華たちから興味がなくなったとでもいうように、枝を振るう先を変えた。元々細長い枝を更に長く変化させて、己の周囲を飛び回る何かを払い落とそうと必死になっている。
 鳥の羽音がする。高速で飛び回る何かの姿を彩華は捉えることはできなかった。
 だが、先程から止まない音は、間違いなく鳥の羽ばたきによるものだ。
 目にも留まらぬ速さで幹に無数の切り傷がついてゆく。妖樹は払い落とそうと躍起になっているが、一本枝ではままならないのだろう。傷が増えるばかりだ。
 繰り広げられている戦闘に唖然として、彩華は横にいる黒猫に問いただした。いつでも動けるように指は軽く印を結んだままだ。
「あれって、月影の分身とか、そういうもの?」
 話しながらも意識は妖樹と突然現れた光に向ける。
 必死に目で追いかけて、やはり鳥だと確認できた。
 手を出さないのはこの鳥の目的が不明だからだ。
「いーや」
 返ってきた言葉には不機嫌な色が滲んでいた。
「……横取りされるのは、あまり気分が良くないな」
 淡く発光する飛行物体に目をやって月影が呟く。
 ちらりと横目で確認すると、黒猫の鼻のあたりに皺がよっているのが見てとれた。
 ――これは、かなり、間違いなく。怒っている。
 彩華が声をかけようと思ったそのとき。
 ガラスの割れる音がした。
 妖樹の根元に透明な塊が落ちている。半分砕けているが、まだ戦う気なのだろう。半分砕けているが懸命にもがいている。
 散らばった破片が月光を反射して煌めく。
 ぬっ……と、妖樹の根が持ち上がった。
 狙いはガラスの塊。残りを踏み潰すつもりらしい。
「地縛」
 言霊の力により震えた大気が妖を縛る。片足を上げたような格好で妖樹が固まった。地を踏みしめている根っこごと動きを封じた。
「月影っ」
 彩華の意図を組んで黒猫が駆け出す。塊を器用に背中に乗せてあっという間に戻ってきた。
「ほれ」
「ありがと。……」
 片翼を失ったそれは、ぴくりとも動かない。
 視線を戻すと妖樹は捕縛されたままだ。
 彩華が神呪を紡ごうと口を開きかけた。
 しかし、それよりも早く行動を起こした者がいた。
 妖樹の体に幾重もの矢が突き刺さると、ぎゃあと甲高い悲鳴があがった。妖気を削ってゆく彩華の術とは違い、今の矢は的確に急所を狙ったように見えた。
 矢は、自分の背後から射られた。
 一瞬呆気にとられたが、彩華はすぐに正気に戻って振り返る。
 彩華たちがいる場所よりも少し高い遊歩道から女が見下ろしていた。
 まず目を惹いたのは金色の髪だった。柔らかそうな巻き髪が風に吹かれ、なびく度に艶を放つ。
 長身の男を従えて、女は悠然と立っていた。
 妖樹を見据えたまま、女が蠱惑的な笑みを浮かべる。その印象は棘を持つ薔薇を思わせた。
 薔薇の化身はしばらく妖樹を見つめていたが、つい、と視線を滑らせた。
「こんばんは。東洋の術者さん」
 彩華を見つめてにこりと笑う。その容姿からは想像できないほど流暢な日本語だった。
「日本へようこそ。取り込み中だから後にしてくれないか?」
 彩華が口を開くよりも早く、抑揚のない声で返事がされた。月影だ。
 月影は訝ってかすかに目を細めた。殺気はないものの、警戒している様子がうかがえる。
「ごめんなさい。邪魔をするつもりはないのだけれど……これは、私たちが狩り残したモノだから……この場は譲ってくださる?」
 女は丁寧な口調だったが有無を言わさぬ響きがあった。
 穏やかに佇むその姿は、妖気の漂う術者の戦場にはとても場違いである。
 だが暗闇に浮かぶ金の瞳は、女が常人ではないことを物語っていた。
「遠いこの国にどうやってたどり着いたのかしらね」
 女は、見る者がうっとりとするような極上の笑みを異形に向けた。
「ラインヴァルト、彼女をお願いね。強いパートナーがいるから心配はないでしょうけれど」
 異形から目を逸らさずに女――エリザベートが命じる。
「はい」
 ラインヴァルトと呼ばれた男は短く答えると、軽い身のこなしで柵を乗り越えた。優雅な足取りで彩華に近づく。
 ふたりが魔性と呼ばれるモノに近い存在であるのだと、彩華は瞬時に理解した。
 纏う気は人の持つものではなく、かといって神と呼べるものでもない。完成されているがどこか歪な作り物――そんな印象を持った。
「こいつから離れろ」
 今にも飛びかかりそうな勢いで月影が牙を剥く。
「月影」
 彩華がたしなめる。
 この人たちの瞳にも纏う空気にも翳りはない。それは、彼にもわかっているはずだ。
 最後に睨みをきかせたものの、渋々といった風情で月影が引いた。
「お怪我は……されていますね。痛みは?」
 彩華の左頬を目にして、ラインヴァルトは優しく目元を和ませた。
「怪我ってほどではないので大丈夫です」
 突然ジーンズの裾を引っ張られて足下に視線を落とす。目を三角にした黒猫が、じっと見上げていた。
 月影の無言の攻撃を受けた彩華は、身を屈めて彼を拾い上げた。胸に抱くようにすると、尻尾を一度だけ振ってから大人しく腕に収まった。
「すぐに済むと思いますので、治療はその後に」
 治療が必要なほどの怪我ではない。消毒と瘴気の洗い流しはしなければならないだろうが。
 彩華は何か話そうとして口を閉ざした。ラインヴァルトにつられて視線を動かす。
 妖樹と、少し離れたところに立つエリザベートが見えた。双方睨みあったままの状態で微動だにしなかった。
 エリザベートが小首を傾げた。その拍子に金色の髪が揺れる。
 触れずとも柔らかさが伝わってくるような彼女の髪は、夕暮れ時に金色に輝く日の光を紡いだようにきらきらと輝く。
 我知らず目を奪われた彩華の耳に、じゃり、と砂の擦れる音が聞こえた。
 身じろぎすらしていないと思っていたのは彩華の勘違いで、妖樹はすでに捕縛を解いて後退していた。少しずつ少しずつ……気づかれないように摺り足で後ろへと進んでいる。
「逃がさない」
 彼女が発した言葉には、気を抜くと背筋がゾッとするような嫌な響きがあった。冷ややかな、それでいてどこか楽しそうな声。
 だがエリザベートが仕掛ける様子はない。それっきり、黙ったまま佇んでいる。
 ふいに、妖樹の姿が歪んだ。素早く横へ移動しようとして、ぴたりと動きを止めた。
 これでは不利だと感じて窮地を抜け出そうとしたのだろうか。しかし一メートルも進まないうちに、妖樹は退去を阻まれた。方向転換しようとするが、叶わず悲鳴をあげる。
 妖樹の間近に何かがある。
 どこからともなく現れた長い棒が、自らを光らせながら地面に突き刺さっていた。後から後から発生した無数のそれは、同じように地面に突き刺さり、瞬く間に妖樹を囲う。
 妖樹は完全に身動きが取れなくなった。
「逃がさないと、言ったでしょう?」
 妖艶な笑みを唇に刷いて、エリザベートが再度宣言する。
 金の瞳が鋭く煌めいた。
「ほぅ。さしずめ狩りといったところか」
 月影が感嘆の声をあげた。
「狩り……?」
 ぽつりと呟く。先程から感じていた違和感はそれかと納得する。
 妖気を削いでから消滅させる彩華の退魔法とは違う。
 獲物の考えを読み、最小限の動作で、確実に狩場に追い込んでゆく。今この場は、光の棒でこしらえたあの檻が、追い込み柵の代わりなのだろう。
 一度狙われた獲物は、もう逃げられない。
 簡易的な檻に囲まれた妖樹はしばらく脱出を試みていたものの、次第に弱々しくなっていった。
「あなたはいつからこの国に居たのかしら」
 言葉はわからないはずなのに、エリザベートは妖樹に向けて言った。
「今の時代は棲み難いでしょう?」
 それまで殆ど動かなかったエリザベートは、右手を顔の横にあげて、ぱちんと指を鳴らした。
 淡かった発光が命令に応えたかのように強さを増す。
 視界が白く染め上げられて、目が慣れる頃には、檻も妖樹も消えていた。跡には微量の光の粒子があるばかり。
 エリザベートが屈んで何かを拾い上げる。
「……意外と素早いから、あなたははやぶさが良いかしらね?」
 誰に言うともなしに呟いた。
 指で摘んで目前にかざしたそれは、薄茶色の水晶に見えた。濁りはなく、月明かりに照らされてきらりと光る。
「あれは妖の……残滓?」
 彩華の声を聞きつけてエリザベートが振り返った。
 彼女は今まで狩りをしていたとは思えない、柔らかい表情だった。モデルのような綺麗な足取りで彩華たちの傍へと近づいて、そっと手を伸ばす。
 突然、左頬に触れられた彩華は驚いて肩を揺らした。
 細長い指を一度だけ滑らせて、
「あの子のお礼」
 エリザベートが笑う。
 左頬に体温とは違う温かさを感じた。反射的に頬に触れると、そこにあるはずのミミズ腫れがない。
「あの子?」
 少々頭を混乱させながらも聞き返すと、エリザベートはちらりと目で合図した。
 視線の先にはラインヴァルトがいる。彼の手にはいつの間にか片翼の壊れた鳥が収まっていた。
 エリザベートは差し出された鳥を受け取って、愛おしそうに目を細める。
「ありがとう。お疲れ様」
 彼女は囁きにも似た礼を述べた。
 彩華が目を見張る。
 手のひらよりも大きかった鳥が、みるみるうちに崩れて砂になったのだ。やがてそれも、最初からなかったかのように消えた。
「あなたは、なに?」
 闘気を綺麗に隠しても彼女から人の気配は感じない。だが、やはり化け物と呼ぶのははばかれる。
 不思議とおぞましさはなかった。詠や月影――人ならざるものが普段傍にいるから、そう感じる訳ではないようだ。
 それでもまだ油断はできない。彩華は警戒を解かずに女の言葉を待った。
 しばし考えこむように小首を傾げたエリザベートは、やがて彩華を真っ直ぐ見つめて、赤い唇に笑みを刷いた。
「わたしは……闇を狩る存在モノ
 月を背にしてそう答える女は、闇夜に最も咲き誇る大輪の薔薇だと彩華は思った。
「異国の狩人か。それはご苦労なことで。で? 何のつもりで来た」
 抑揚なく月影が言う。全身を青白い闘気で包み込み、目を眇めた。
「月影」
 今にも戦闘態勢に入りそうな彼を制する。
「一応、形式的に聞いておこうと思っただけだ。知らない奴が訪ねてきたら、何用か聞くだろう?」
 と、月影が鼻を鳴らす。
「ん……まあね」
 確かに一理ある。だが刺々しい態度は少し問題だ。
 彩華がどうやって宥めるか考えあぐねていると、エリザベートが真っ直ぐ月影を見つめた。
 金の双眸に冷ややかな光が宿った。
「では。わたしもひとつ訊ねていいかしら?」
「なんだ」
 荒んだ気を一切消さずに月影が促す。
「自然のことわりを崩して平気なんて、随分と高慢な神なのね。無意識でもその道を選んだのは本人とはいえ……」
 何の話なのか検討もつかない彩華が怪訝そうな顔をする。
 月影の目が一瞬だけ剣呑さを帯びた。
「……それを、あんたが言うのか? 見たところ、そっちも変わらないだろう? 天命かどうか知らないが、オレにはあんたが男の運命を狂わせた元凶と思えるぞ」
 言って、月影はエリザベートの横に立つ男を見やる。
「そうね。他人の事情をとやかく言えた立場ではないわ。ごめんなさい」
 張り詰めていた空気が和らいだ。
「――いや。オレも言い過ぎた」
 素直に詫びる月影に驚く。
 感じ取った雰囲気に、猫にマタタビ女郎に小判、となるものを探さなければならないと思っていた彩華だった。
「待て、彩」
 彼女の心に浮かんだことを鋭く察して、月影が低い声で問うた。
「お前……オレを何だと思っている?」
「えーと……荒御霊あらみたま? ちょっと喧嘩っぱやいし」
 答えが気に入らないらしく、黒猫の眉間に皺がよった。
「否定はしないが、違う」
「上手く言えないけど……それ矛盾してない?」
「してない。オレはちょっとばかりやんちゃな素質を持つ、ちょっぴりお茶目な八百万のひとりだ」
 何がお茶目か。
 彩華はそんな思いを視線に含ませるが、当人は物ともしない。
「相手の出方次第で態度を変えるだけだ」
「う……ん……」
 なおも言い切られて彩華は言い澱んだ。
 普段穏やかな人間も時には本気で怒る。神が二面性を持っているのは、人間のそれと変わらない。
 多分、そのようなことを言っているのだろう。言いたいことは何となくわかる。わかるのだが――。
 気に入らないから暴れます、では無駄な争いが絶えなくなるではないか。
 後でうちの御祭神に意見を聞こう、と彩華が考えたとき、女の笑う気配を感じ取った。
 振り返ると、思った通りエリザベートが供を従えてこちらを見ていた。
「お取り込み中に申し訳ないのだけれど……少しお時間いただける?」
 にっこりと、美しい微笑みを向けられて、彩華は黙って頷いた。
 異を唱える理由はなかった。



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