たいじや -天の盃- 8
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 草木の眠る真夜中でも、駅周辺の繁華街はそれなりに賑やかだ。
 遊び帰りなのだろうか。まだ煌々と明かりの灯る看板の近くに立っていた複数の人間が、興味津々という顔で何かを話している。
 時折、好奇心旺盛な視線が刺さるのを感じた。
「……」
 異国の旅行者ふたりを伴って、彩華は少々居心地悪そうにしながら歩く。
 そんな彩華の心情など露とも知らず、エリザベートとラインヴァルトは周囲を物珍しそうに眺めている。
 とにかく目立つのだ、このふたりは。見目麗しいだけでなく、特に観光地でもないこの地域に、見るからに海外からの旅行者となれば嫌でも人目をひく。
 ちなみに月影は黒猫の姿のまま、ぽてぽて彩華の横を歩いている。これで彼まで人型を取っていたら、更に目立っただろう。
 ほどなく三人と一匹は、二十四時間営業のレストランへと着いた。
「先に入ってろ」
 入口の少し前で月影が声をかける。
「詠に連絡しておく」
 彩華は黙って頷いた。
 月影が一緒だから心配はしていないだろうが、予定よりも帰宅が遅くなれば良からぬことが起きたと思うかもしれない。
 暗闇へその身を滑らせた黒猫を見送って、自動ドアを開いた。
 来店を知らせる機械音が鳴り響く。
「いらっしゃいませ今晩は」
 ホール担当のウエイターが疲れを見せぬ笑顔で出迎えた。彼は一瞬惚けたが、我に返って慌てて三人を席へと案内する。
 昼間は混んでいるはずの店内も、さすがに深夜帯は人もまばらだ。音楽が流れているので緩和されているが、ひっそりと静まり返っている。
 奥まった席へ案内されて彩華は安堵する。
 少々特殊な内容の話になるだろう。聞き耳を立てる者もいないだろうが、注目されるのはなるべく避けたかったのだ。
「いつもこんなに静かなの?」
 エリザベートが興味深そうに店内を見回す。
 彩華は首を傾げた。
「さぁ……この時間に滅多に来ることはないので」
 夜遅くに出かけることはあるが、仕事が終われば寄り道などせずに帰るからわからない。
 団体客がいればまた違うのだろう。しかし今はどの席も少人数だ。
 ドアが開いて来店の音が鳴った。
「いらっしゃいませ……?」
 明るくはきはきとしていたウエイターの語尾が小さくなった。不思議そうな顔をして、ウエイターは店の奥へ引っ込む。
 しばらくして、当然のように歩いてくる黒猫の姿が目に映った。
 夜中だから知人に遭遇する確率は少ないはずだ。人型をとってはどうか、と提案してみたが、注意するに越したことはないと考えたようだ。
 猫は他の人間に見咎められることはない。おそらく姿が見えぬように術を施しているのだろう。
 悠々と尻尾を振りながら、月影は三人の座るテーブルへやってきた。助走もつけずに飛び上がり、彩華の膝上を難なく飛び越えて、ソファーに着地する。
 反動でソファーが軋んだ。
「何かいる?」
 彩華が小声で訊ねると、月影は首を横に振った。
「帰ったら酒をもらう」
 月影はそう言って、彩華の横に行儀良く座る。四肢を揃えて背筋を伸ばし、一見正座でもしているかのようだ。
「わかった」
 約束だと言わんばかりの真面目な顔に彩華は苦笑する。そうして、そっと目をあげた。
 開いたメニューの影から、向かいに座るふたりへ視線を向ける。
 何を注文しようかと楽しそうにしているエリザベートと、そんな彼女を微笑ましく見つめているラインヴァルト。
 こうしていると、人目を非常に惹くだけの、恋人同士に見える。何の力も持たない、ただの人間に。
 特にエリザベートは、空輪山で妖と対峙していたときの霊力を綺麗に消し去っている。感じた戦慄はもうない。先ほどの出来事は夢だったのか、と思ってしまうほど穏やかな雰囲気を醸し出している。金に煌めいていた瞳も、今はよくある薄茶色だ。
 年齢は自分と同じくらいだろうか。ラインヴァルトは大人びた風格があるから、彼は少し年上に違いない。態度から、彼が従者の立場であることがうかがえた。
 ここへ来るまでの会話で、ふたりが欧州の出身らしいこともわかった。勉強をしたと言っていたが、それにしても日本語が上手だ。
「決まったのか」
「あ……うん」
 考えに没頭していた彩華を引き戻したのは、月影の囁きだった。メニューの後ろのページを開いたまま動かないでいた彩華を訝しんでいる。
「ちょっと、ボーッとしちゃった」
 声を抑えて笑う。
 通路を挟んだ向かいのテーブルに人がいるため、彩華は何気なく座り直して月影の姿を隠す。見えぬよう術をかけているとしても気になったのだ。
 もう一度メニューに目を落とした彩華の視線が、ある一点で止まった。
 しばらく心の中で葛藤して、ぱたりと閉じる。心惹かれた物はあるのだが、結局飲み物だけにしてメニューを元に戻した。
「アレはあんたたちの国から来た奴なのか?」
 注文を取りにきたウエイターが去ると、早速月影が口を開いた。
「わたしたちの国、というと語弊があるわね」
 エリザベートが困ったように眉根をよせた。幾分か声を抑えて話し出す。
 近くにいた他の客は、注文を済ませる頃に運よく席を立った。今、周りには誰もいない。心配はないのだが自然と小声になる。
「最初に発見された時期や場所を知りたいというのなら、屋敷に戻って文献を開かなくてはならないけれど……」
 月影が尻尾を振るようにして遮った。
「そこまでは求めてない。オレが知りたいのは、アレがどうやってこの国に来たかと、少々の生態くらいだ」
「憶測も含まれるから、正解はわたしにもわからないの」
 と、前置きしてエリザベートは話し始めた。
 店内に流れる緩やかな音楽と相まって、彼女の凛とした声は伝承を伝える語り部のようだ。
「大昔は森の奥でほとんど知られることなく生息していたのだけれど、誰か心ない者が外へ持ち出したのでしょうね。最初は珍しさからだったのかもしれない。興味本位で軽く考えていたのかもしれない。人の入らない森で育つ分にはまだ良かったのに」
 自身の利益を得るために悪事を行う輩はどの国にもいる。
 悪人の良からぬ気にあたって、元々は問題がなかった気質が変化するときもある。面倒ごとに拍車をかけないでほしい。
 彩華は過去の調伏を思い出して、僅かに半目になる。
「あるとき、隣国の街中で異質な事件が起きてね。吸血鬼が現れた、と」
 それが吸血鬼ではなく血を好んで採取する吸血樹――妖樹だったのだろう。
 眉をひそめてエリザベートはため息をついた。
「外へ出てしまったモノは、随分と昔に根絶えさせたはずだったの。でも、物好きが妖樹の種をどこからか入手して育てていたのでしょうね」
「迷惑な」
 月影の率直な感想に彩華が幾分か険しい顔で同意する。
 自然に育ったならば致し方ない。育つ何らかの原因があったのだろう。
 しかしあえて栽培する必要はない。しなくてもよい厄介事に首を突っ込むなど自殺行為になりかねない。
「丹精こめて育てたヤツにうっかり襲われたりしてな」
 月影がけろりと怖いことを言う。
「あるかもねぇ」
 彩華が呆れたように言うと、エリザベートも相槌を打った。
「誰が街中に持ち込んだのか、結局わからなかったの。持ち主の名前が書いてあった訳ではないし」
 茶目っ気たっぷりにエリザベートが微笑んだ。
「妖樹は今回のモノとは比べ物にはならないくらい小さかったし、日が落ちてしまえば、当時は今と違って暗闇に包まれるから」
 闇に沈む街。満足に見渡せる明かりがなければ、襲われたらあっという間だ。相手が妖でも人間でも同じ。
「その小さいヤツ≠ヘ捕まえたんだろう?」
「えぇ。その子は捕まえたんだけれど」
 月影が目を眇める。
「ソレの種が残ってた……か? で、何らかの方法でここへ運ばれてきたと」
 誰かが故意あるいは偶然持ってきてしまったのだろう。
 重ねられた質問にエリザベートが肯定を示した。しかし「でも……」と否定の言葉を続けた。先ほどまであった微笑みは消し去っている。
「その子が残した種というよりも、そのもの――本体と言った方が近いかもしれない」
 淡々と事実を語るその声音は低く、冷たいものを感じる。
「寿命が短い種族ですべてを狩ることはできなかったのだけれど。古代からの記録によれば、発見された複数の妖樹は、構成パターンがまったく一緒だったから」
「どういうこと?」
 黙って聞いていた彩華が驚きの声をあげた。
「異形の構成パターンが一緒ってことは、そのまま同一の個体が複数存在していたと考えていいの?」
「株分けか細胞分裂ってところか。植物だけに」
 増える様を想像して、彩華は僅かに眉根をよせる。茶化す口調でも、月影の例えは笑えない。
 ひとつの物が繰り返し増殖してゆく様子は少々気味が悪い。それが異質なモノであるなら尚更だ。
「月影?」
 ふと横を見ると、月影は渋面のままエリザベートの言葉を反芻していた。
「古代から、と言ったな。しかも寿命が短いと」
 と、確認するように切り出した。
「えぇ」
「なぜ古代生物が今になって動き出すんだ? 寿命が短いのならばおかしいだろう」
 約十五日ごとに活動する今回の妖が、なぜ最近まで公にならなかったのか。
 まだ育っていないうちは小動物から血を摂取していたと仮定しても、おかしな現象が起き出したのは、ここひと月の間だ。もっと前から怪奇現象だと騒ぎになってもよい。
「それは、妖樹が特殊な体質だからでしょうね」
 エリザベートが形容し難い笑みを浮かべた。苦笑いが近いかもしれない。
「先に言ったとおり寿命はとても短かいの。平均で二ヶ月くらいかしら。けれど、眠ってしまえば何十年、何百年と生きられる……冬眠状態と言えばわかりやすいかしら」
 目覚めたときに必要な分を摂取。満足したらふたたび眠りについて一切の活動を最低限に抑える。
 それならば、たとえ寿命が短くとも半永久的に生きることが可能だ。
「だから古臭いのと新しい気配が混ざっていたのか」
 古くから生きる妖樹本体と、体内を巡る獲物の血が月影にそう感じさせたのだろう。
 月影は納得した風情で頷いた。
「最後の質問。オレは、もうすべて消えたと考えているが、あんたの見解は?」
「ヴァンピーアの気配も感じられないし、少なくともこの国にはもういないわ」
 エリザベートが柔らかい口調で、されどきっぱりと断言する。
「そうか。じゃあオレの話は終わった。あとは彩に任せた」
「えぇ?」
「旅人をもてなすのは、その土地に住む人間の仕事だ」
 突然話を振られて彩華が戸惑う。
「唐突に言われても困るよ」
「普通に、神社に海外の参拝者が来たと思えばいいだろう。これも何かの縁。異文化交流は大事だ」
 縁と言うならあなたも当てはまるでしょうが。
 目で訴えてみるが月影は動じない。
 海外からの参拝者への対応も、たまにはある。だが滅多にあるわけではない。精々が年末年始だ。他は数える程度。しかも今は状況が違う。
「神社?」
 エリザベートが興味深そうにしている。
「神社で働いているの?」
「はい。私の家は代々受け継がれてきた神社なので」
 頷くと、エリザベートの瞳が好奇の色を強めた。テーブルから軽く身を乗り出す格好で彩華を見る。
「ならば、さぞかし古き趣のある神社なんでしょうね。清涼な空気の中に、上品でありながら鮮やかな色の建築物……素敵」
 驚きに見開いていた目を優しく細めてエリザベートが笑う。
「昔ながらの建物なので、味わいはあると思いますが……」
 彩華が困惑した様子で言いよどむ。
 贔屓目ではあるが、本殿の欄間やその他に施された細やかな彫刻は中々の代物だと思うし、霊力あらたかな井戸や、樹齢三百年ほどだという立派な桜の木もある。
 だが井戸は霊力があり過ぎて身内以外には公開していない。本殿はどこの神社でも参拝者が入ることはできないし、桜は本殿の裏だ。
 謙遜ではなく、観光的な価値は一切ないだろう。有名な神社は他にいくらでもある。
「古き良き物はそれだけで価値があるのよ。迷惑でなければ、遊びに行っても構わないかしら? 話には聞いても神社って観たことがないの。観光らしい観光も、今回が初めてだから」
 拒む理由はない。害をもたらさなければ誰であろうと参拝は自由だ。
 えっ、と洩れた男の驚く声に視線を巡らせた。
 ラインヴァルトが不思議そうな顔で己の主を見ている。
「エリーザ。あなた一度だけ来日したことがあると言っていませんでしたか? 船を乗り継いだから大変だったと」
「えぇ、言ったわ」
 対するエリザベートもきょとんとしている。
「ええと……来た、としか言わなかったのよね?」
 確認の言葉を受けたラインヴァルトが肯定の返事をした。
「初日に空港で、だったわね。そうだった」
 エリザベートはひとりで納得したかのように頷く。
 状況が飲み込めず、話に入ってもいいのか……どうしたものかと思っていたところに助け舟が出された。
「なんだ、前にも来たのか? いつ頃だ? 観光でないなら何のために?」
 月影だ。
 立て続けの質問にエリザベートが苦笑する。
「あぁ悪い。他意はない。観光じゃないのに船で旅行なんて珍しいと思ってな」
「旅行なんて大それたものではなかったの」
 当時を思い出してエリザベートは息をつく。
「単に、立ち寄っただけなの。船は時間がかかるから、休憩を兼ねてね。知り合いの貿易商にお願いして乗せてもらって。あの頃とは風景も大きく変わってしまっているわね……夜でも煌々としている灯りも、高層ビルも、なかったから」
 そう言ったエリザベートは、当時を懐かしんでいるのか、伏し目がちに微笑んだ。
 彩華は眉をひそめた。違和感を覚えたのだが、考えが纏まらず黙っている。
「貿易商、ねぇ……何年前の話だ?」
 月影も同じように感じたのだろうか。彼も眉間に皺をよせている。
「ラインヴァルトに会う前だから……三百……二百年?」
「そのくらいですね」
 平然とラインヴァルトが頷いた。
「だから妖樹以外に古代の匂いがあったのか」
 特に驚いた風情もないまま、月影は相槌を打つ。
「……にひゃく……?」
 彩華が複雑な顔をする。
 彼女の呟きを聞き止めた者はいないようだ。月影はエリザベートの話に集中している。ラインヴァルトもおそらく。
 こちらも特異体質のようだ。
 ――深く考えない方が身のため、だろう。
 なんせ、自分の周りにも規格外の存在がいるのだから。
 彩華がそう結論付けたとき、ウエイターが注文の品を持って現れた。
 月影の耳がぴんと張った。ほぼ同時にエリザベートが口を閉ざした。
 遅れて彩華も気がつき、何となく姿勢を正す。
「お待たせいたしました」
 ウエイターが両手にそれぞれ盆と皿を持って現れた。
「特製パンケーキセットのお客様」
「彼女に」
 ラインヴァルトの返事を受けて、エリザベートの前にセッティングされる。
 思わず椅子から落ちそうな気分になる彩華であった。
 真夜中はお目にかかる機会が少ないであろう食べ物だ。考え事をしていたせいで、彼女が何を注文したのか気づかなかった。
 嬉々として輝くエリザベートの瞳を目にして、ラインヴァルトが苦笑する。
 まだホカホカと湯気のたつホットケーキを三枚重ねて、一番上にバニラアイスクリーム。アイスの上にはチョコレートソース。ケーキの周りに色とりどりのフルーツをあしらった、この店特製のパンケーキである。ちなみにフルーツは季節によって違う。
 カロリーは言わずもがな。深夜に食べるような代物ではない。
 女なら少なからず気にすることを一切気にしていない風のエリザベートに、彩華は羨望の思いを向ける。
 だが、美味しそうに食べる姿は見ていて気持ちがいい。
 そうしてふと思う。
 人ならざる者って、みんな食いしん坊なんだろうか。
 そんな彩華の思いに気づいたのか、涼しい声が直接脳裏に届いた。
 ――海外は知らないが、八百万は結構宴会事が好きらしいからなぁ。どこも一緒じゃないか? 三大欲求は。
 声の主は霊体となって彩華の傍に控えている月影だ。自分も一応神の分類に属するというのに他人ごとのような口振りだ。
 彩華は月影を横目で見ると、自身のカップに口をつけた。
 確かに神話を読むと食べ物か舞でもてなしていることが多い気がする。
 ――でも……。
 同じように思念で返そうとして、目の前で繰り広げられる光景に言葉を失った。
 これは、俗に言う恋人食べ≠ニいうやつだろうか。
 エリザベートがケーキの刺さったフォークをラインヴァルトに差し出し、彼はそれを照れることなく受け取っている。
「値段の割に美味しいですね」
「そうよね。屋敷の近くにもお店できないかしら……。んーおいしい」
 にこにこ。にこにこ。
 擬音が聞こえてきそうなほどの笑顔で、エリザベートは上機嫌にケーキを口に運んでいる。
「文化が違いますから無理でしょう」
「そうよね。残念」
 瞬きを繰り返している彩華が、更に脱力感を増すであろう声が聞こえた。
 ――なぁ彩。今度オレにもあれやって。
 あれとは恋人食べだ。
 聞こえなかったフリをして無視した彩華は咳払いをひとつする。
 月影がどこまで真面目に言っているのかわかったものではない。やるのは百歩譲っていいのだが、冗談を本気にして馬鹿を見るのは避けたい。
 ――気が向いたらね。
 素っ気ない返事でもよかったらしい。月影は一度伸びをすると、彩華の膝の上で丸くなって目を閉じた。
 さっきまでは気が張っていたから平気だったけど、急に疲れが出たような……。
 彩華は欠伸をひとつ噛み殺した。
 退治屋稼業はこれで一旦終了だ。明日からは巫女舞の練習に精を出さなければ。
 なんせ祭まで日にちがない。舞の練習は鬼の教官もとい御祭神が見てくれるのだろう。
 彩華は苦虫を噛み潰したような顔をして、紅茶を啜った。



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