Mon petit mouton-モン プティ ムトン-
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Episode 3

 男の悲鳴を耳にしたミシェルは何事かと顔をあげた。声のしたほうを見やると、クリストフが呆然と立ち尽くしている。
「なぁに? クリス」
「なぁに、ではありませんミシェル! 何をしているのですか!」
「薔薇園の手入れよ」
 見ればわかるでしょう? とでも言いたげにミシェルが首をかしげた。
 ミシェルは長い髪を三つ編みにし、汚れてもいいようにと質素な格好で屈んでいる。土いじりをしているために彼女の手は薄汚れている。
「そんなことわたしがやりますから。ミシェルは屋敷で寛いでいてください!」
「嫌」
 にべもなく断ると、ミシェルは顔にかかったほつれ毛を指で払う。――と、クリストフの悲鳴がまたあがった。
「あぁ……頬が泥だらけじゃないですか」
 クリストフがハンカチーフを取り出して顔の泥を拭ってやると、ミシェルはニコッと笑う。クリストフはというと、少し当惑した表情で苦笑いするしかなかった。
 村にいた頃は、家畜の手伝いをすれば顔どころではなく髪も泥だらけになったのだ。だからこの程度は気にしていないと言っても、彼にその思いは通じない。
 当主としての自覚を持て、ということらしいのだが、ほんの一週間前に一方的に指名されたのだから無理な話だ。
「毎日のんびり過ごすなんて私の性分じゃないもの。だいたい、好きにしていいって言ったのはクリスじゃない」
 何か言いたげな顔のクリストフにそう告げると、彼は押し黙った。どう反論しようかと考えあぐねている。
 ふと一週間前の出来事を思い出したミシェルが笑みを洩らす。
 ミシェルは半ば強引にこの屋敷の主人となった。
 まず盗みの罪を不問にする。そしてミシェルが敷地内から出られない代わりに、ここでは好きにしてもいいとクリストフは言ったのだ。
 不正を働いたのは自分の父。要求を飲むしかない。
 対するミシェルが出した条件は、自分に敬称をつけるのを止めること、であった。
 そんな問答があってから三日間ほどは大人しく屋敷内の探検に留めた。屋敷の一角にある図書室には魅力的な本がずらりと並んでいたが、一日中読み続けるのは辛い。
 図書室の他にも遊戯室など興味深いものがあったが、如何せん、ひとりで遊びに興じてもつまらない。
 今日はどう過ごそうかと思案していると、窓の外に薔薇園が見えた。不自然な土の盛りあがりに気づいたミシェルは外へ出て、そのまま土いじりを開始したのだった。
「けっこう綺麗になったでしょ?」
 ミシェルは軽く伸びをすると立ち上がった。
 良く手入れのされた薔薇園であったが、最近は手が回らないのかところどころ雑草が目についた。気になったミシェルは何もすることがないからと手入れを始めたのだった。
 この屋敷へ来たときにクリストフが言っていた使用人はわたし以外いない≠ニいう言葉を、彼女は初め主人の身のまわりの世話をする従者はひとり≠ニいう意味だと思っていたのだが、本当にいなかった。庭師も料理人もだ。
 料理はクリストフがしているのかと訊ねると、彼は笑って否定した。
 では、一体誰が作っているのか。
 毎日おいしく食べているが、少し不気味になったミシェルは恐る恐るキッチンを覗いた。
 静まりかえったそこには人の気配はない。視線を動かして誰もいないことを確認すると踵を返す。
「――っ」
 背後から小さな物音が聞こえて、ミシェルは後ろを振り返った。そうして目を見張る。戸棚にしまわれていたはずの包丁とお玉が、優雅にお辞儀をした――ように見えたのだ。
 瞬きを繰り返して、彼女は目の錯覚ではなかったことを知る。
「えっと……いつもおいしい料理を作ってくれてる、の……?」
 呟くと、ふたつの調理道具は頷くように体を前後に揺すった。この分では他の道具もひとりで動きそうだ。
「……そう。いつもありがとう」
 思考回路がおかしくなる前にそれだけ言うと、ミシェルは廊下へ出て深いため息をついた。
 この不思議な屋敷でいちいち気にしていたら身が持たない。
 いっそのことすべて夢だと思って楽しんでしまえと開き直ったミシェルは、常識の範囲で好き勝手することに決めたのだ。
 しかしクリストフは不満らしい。
「わたしはゆっくりお寛ぎいただきたいのですが」
「ゆっくりしてるわよ? でもそれだけじゃ飽きちゃうんだもの」
 いずれ必要になるかもしれないと、文字の読み書きは父に教わった。最初は夢中になって図書室に足を運んでいたのだが、さすがに飽きる。
「何をしてもいいと言ったのはクリスよ?」
 言葉に詰まり反論できないでいるクリストフに笑顔を向けると、ミシェルはもう一度伸びをする。
「疲れたから少し休もうかな」
「では、お茶をご用意しましょう。その前に――湯浴みが先、ですね」
「……そうね」
 全身泥だらけの姿に顔を見合わせて笑う。
「せっかくですから、外でのティータイムにしますか?」
 薔薇園の一角にはテーブルセットが備えられている。先の当主は薔薇園でのティータイムが好きだったそうだ。だから大事な薔薇を手放すのは、たとえ一輪でも良しとしなかったのだろうとミシェルは思った。
「うん。そうするわ」
 道具を手早く片付けて、ミシェルは屋敷へと歩みを進めた。

 湯浴みを済ませたミシェルは、それまで着ていた簡素な服ではなく、クリストフが用意した青いドレスを身に着けた。見たことがない海色のドレスは彼女のお気に入りだった。
 全身の映る姿見でおかしなところがないか念入りに確認する。クリストフは彼女を自由にさせているが、身だしなみにはなかなか厳しいのだ。
「大丈夫……かな」
 誰に言うともなしに呟くと、鏡の前に置いたブラシが是と言いたげに頷いた。

「ここでの生活で何か不自由はありますか?」
 濃く淹れたミルクティーを飲んで一息ついたところでクリストフが問うた。
 しばらく考えこんだミシェルは首を横に振る。
「ないわ。とっても良くしてもらっているし。あ……でも」
「なんですか?」
 ティーカップを置いて言いづらそうに口を開く。
「家に手紙を出したいの。駄目かな? きっと心配しているし」
 帰られないのなら、せめて元気だと伝えたい。
 却下されるかと思ったミシェルの願いは難なく叶えられた。
「いいでしょう。ではこれを」
 彼の手に現れたのはサーカス団の魔術師が使いそうな真っ白い鳥だった。伝書鳩のようなものだと告げてミシェルの目前にかざす。
「あなたにさしあげます。あちらからの手紙もこれに持たせればいいでしょう」
「ありがとう。どこに隠してたの?」
「それは秘密です。ご主人様にも言えません」
 そう言って、クリストフは不可解な顔をしているミシェルに笑みを見せた。

 冷たく静まり返った廊下に蝋燭の明かりが揺らめいている。
 燭台を片手に歩いているのはミシェルだ。夜着の上にローブを羽織っているが、寒さに身を震わせている。
 空いている手に息を吹きかける。白い霧に包まれた手は一瞬温まるがすぐに冷えてしまう。
 なかなか寝付けずにいた彼女は先ほどまで図書室にいた。欠伸をひとつして歩みを進める。今ベッドへ潜りこめばあっという間に眠れそうだ。
 ――真夜中に起きていたなんて、彼に見つかったら大目玉を食らうだろな。
 ずれたローブを直し、声をひそめて笑う。
 ミシェルは早く部屋に戻ろうと思うが、ふと何かに惹かれて大きく取った窓にそっと近づいた。
 丸い光が目に入ったのだ。
 空には十三夜の月が輝いていた。明日もいい天気だろうとミシェルは思う。この敷地内で晴れ以外の日があるのかわからないのだが。
「明日も薔薇園の手入れかな。でも温室も気になるし――」
 視界に影が映った気がして、ミシェルは何気なく下を覗きこんだ。
 夜露に濡れているであろう薔薇は、月明かりを反射しているように輝いている。そこに、人影が見える。金髪の男のようだ。月明かりでは顔はよく見えない。
「……誰?」
 呟きに答える者はいない。
 侵入者――はありえないだろう。意思を持つ門が開くとは思えないし、外壁を登りきったとしても、訪問を望まぬ者には幻影を見せて追い返すはずだ。
 では、自分の知らない誰かがいたのだろうか。ここへ来てから一週間しか経っていない。可能性としてはありえる。しかしクリストフがそれを隠すとは思えない。
 ミシェルは眉をひそめて考えを巡らせる。
 考えても答えは出ない。
「……不審者を問い詰めるのも当主の役目よね。人手が足りないし」
 この言い訳≠ヘ自分を正当化するためのものだ。本音を言えば、ただの好奇心。
 クリストフが聞いたらやめてくれと泣き叫びそうなことを言い、ミシェルは廊下を引き返した。
 問題なく一階へ降りて安堵の息をつく。
 クリストフにこのような姿を見られたら咎められるだろう。彼は自身の部屋にいるのか、彼女の行動に気づいている様子はない。
 当主≠ェ真夜中に外へ出ようとしているのを阻止されるかもしれないと危惧したが、屋敷の扉はミシェルが玄関に近づくとひとりでに開いた。
 ミシェルは夜風の冷たさに首を竦めてローブを引き寄せた。室内用のローブでは冷気を完全に遮断するのは難しい。
 燭台に灯した火が消えぬように自身の身体で庇いながら薔薇園へと急ぐ。
 薔薇園の少し奥まったところにその男がいた。
 陰に身を潜めて様子をうかがう。
 綺麗すぎて怖い。それが男に感じた第一印象だった。嫌な気配は一切感じなかったというのにだ。
 金色の髪と瞳は穏やかな光を湛えている。質が良さそうな黒の上下は、クリストフが着ている服に似ていた。
 細長い指で薔薇を手折るそのさまは、有名画家の描く絵画のように思えた。甘く澄んだ花の香りと相まって、まるで夢幻的な光景だとぼんやり考える。
 そのとき。男の摘んだ薔薇が、彼の手中で一瞬のうちに光に溶けこみ消え失せた。
「……」
 息をするのを忘れるくらいの衝撃を受けて、ミシェルは呆然と立ち尽くした。僅かに揺らいだミシェルの身体が葉に触れて、がさりと音をたてる。
 男は伏せがちだった顔をはっと上げた。
「み……」
 声を洩らしたが慌てて口を噤んだ。男の硬い表情は、ミシェルがいることに驚いているようだ。
 しまったとミシェルは思う。
 妖魔や精霊という種は人に姿を見られるのを嫌う。人間に目視される前にどこかへと消えるか、姿を見られたことを恥辱と取って、その不届き者を消すかしてしまうという。
 自分以外の人間がこの屋敷にいるはずがないのだ。ならば目の前の男は紛れもない妖魔。瞬時に殺されても文句は言えない。
 己の迂闊さに今になって気づいたミシェルは、ごくりと喉を鳴らした。
 ふたりは向き合ったまま、金縛りにあったかのように身動きできずにいた。
 やがて脱兎のごとく逃げ出そうとした男に一瞬意表をつかれて固まるが――ひとつ思い当たったミシェルが強く命令する。
「――止まりなさいっ。主命令!」
 一か八か賭けた言葉に相手は即座に反応した。彼女の勘は当たったようだ。
 男は立ち止まったが、ミシェルの方を振り返りはしない。
「こっち向いて……クリスでしょう?」
 しばらく微動だにしなかった男は、諦めたように息を吐くとゆったりとした動作で振り向いた。
「まったく。淑女が夜着のまま真夜中に外へ出るなど関心しませんね」
「はぐらかさないで。私、あなたが羊の妖精か何かだと思っていたのよ。人に変化できるの? それとも今の姿が本当のあなたなの?」
 誤魔化されないように一気に捲くし立てる。
 一瞬唖然としてから、クリストフは苦笑まじりに言葉を返した。
「はぐらかしませんよ。もう遅いですから、話は明日にしましょう」
 そう言って口元を緩める。
 確かに瞼が重くて起きているのがやっとだ。これでは話などできない。
 ミシェルは了解してゆっくりと頷いた。



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